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母は精神疾患でした【詳細版】⑥|毒親と思い憎んだ母と縁を切った高校生時代


▶不快に思われたり、辛く感じる方がいるかもしれません。
▶この体験談では私の母親が実際に罹患していた、『うつ病』『統合失調症』『パーソナリティー障害』を扱っていますが、あくまで「私の母親」の場合であり、これらを患う全ての方々の症状や回復過程を指すものではありません。一事例としてご覧頂ければ幸いです。
※2022年10月25日に公開した記事を加筆・訂正しています。更新2023.7.28


■高校生時代②

前回(高校生時代①)の続きです。
最初は話し合いで離婚調整をしようといていましたが、母の逆上で破談となり、調停の方針になりました。

この頃になると、母は別居先だった実家を出て、一人暮らしを始めていました。
しかし日中に、父・私・妹が住む家に合鍵で勝手に入ってきては、父以外(私・妹・自分)の分だけ夕食を作り、父が帰ってきても、父に人格を否定するような内容の置手紙を残していったり、父の存在だけ徹底的に無視するという嫌がらせを休日以外、毎日している状況でした。

そんな母に私は距離を置いている状態でした。父への嫌がらせをやめるように説得しても、母はとまることはありませんでした。

■母との絶縁

私が何を言っても、心を失ったかのように父に嫌がらせを続ける母に私はもう我慢の限界でした。


『なぜここまで支えてくれた父親にこんなひどいことができるのか?』


『なぜそんな自分を正当化できるのか?』


『父や、私たち子供の気持ちは考えたことがないのか?』


という母への疑問と憎しみが募っていきました。
毒親だと思いました。
そして、私が高校2年生の時、母に絶縁を切り出しました。
泣きながら言いました。

その時、母から「もう、みよの分もご飯も作らないし、話しかけないし、洗濯もしない。お母さんの子供じゃないからね。いいの?」みたいなことを言われた気がします。

母の言葉1つ1つが私の心を深くえぐりました。
返す言葉が思い浮かばないほど、ショックでとにかく泣いてました。
子どもに絶縁を切り出されても、駆け引きをするような母に絶望していました。

最終的に母は、「わかった、みよがそうしたいならそうすればいいんじゃない?」と言い残し、その場を去りました。

この時の私は、『さすがに娘である私から絶縁という言葉が出たら、母も今までの行いを反省して、思い直すかもしれない』というわずかな希望を持っていたので、絶望はより大きなものになりました。
当時はまだ、子供の頃の優しい母の姿を信じていたかったんだと思います。

こうして、幼稚園から始まった私の12年のケア生活は、母との絶縁により終了となりました。



■絶縁後、私の心をえぐる母

私が母と絶縁した後、家庭内は

【母と離婚したい父&絶縁した私】と【母&母のことを捨てきれない妹】

の構図になりました。
妹は「病気の母が一人になってしまうから」と言って母側についていまいした。
私は、父・私が母に死ぬほど苦しめられているにも関わらず、妹が母の味方をする理由がわからず、妹に対しても憎しみを感じるようになり、この頃から私は妹と完全に口をきかなくなっていました。


そのため、学校から家に帰ると私は孤独でした。
父は仕事で家に帰るまでは、家に妹・母がいる状況だったからです。

私は絶縁した日をさかいには父と同じく、空気のように母から存在を無視されるようになりました。

驚いたのは母の切り替えの早さです。
絶縁した次の日から早速、私の分だけ夕食がなく、平然と妹と二人でリビングで夕食をとっていました。
仕方がないので、私は学校終わりにスーパーにより、妹と母がリビングで夕食をとっているのを尻目に自分と父の夕食を作り、1人で食べるという生活をしていました。

まだ、それだけなら良かったのですが、私が家に帰ると母親はきまって、妹に対して話す声をボリュームをわざと大きくし、目の前にいる私の存在をかき消すかのようにしゃべり始めたりして、精神的に私を追い詰めるようなこともしていました。
その時、現場にいた妹は母を話を聞き流すだけで、何も言ってくれませんでした。
そのため、妹が母と一緒に私を追い詰めているような気がして、それまで母から妹のことを守っていたことを後悔し、「守ってきた存在からも裏切れた・・自分のしてきたことって全部なんだったの?」と絶望に打ちひしがれていました。


しかし、大人になってから話を聞くと、この時、妹は「母にとって最後の繋がりである自分が反抗したら、母がさらに家族に危害を加えるかもしれないという恐怖心があったみたいです。そのため、何も言うことができなかった、どうしたらいいのかわからなかったと言っていました。

この妹の本心を知る機会が当時あったら良かったのですが、私は完全に「妹に裏切られた」と思っていたので、妹と話そうとも思わず、妹の本心を知らないまま日々が過ぎていきました。

この状況が死ぬほどつらくて、じわじわと精神的に殺されていくような感覚でした。
でも『こんな母親に負けてたまるか』という負けず嫌い精神だけで日々を乗り切っていました。


■精神的に追い詰めてくる母との戦い※閲覧注意

母親に何とか反撃しようと、私は『お父さんの人格を否定するようなひどいことをして、本当にこれが正しいと思っているの?』『今までずっとケアをしてきた私達に対する思いは何もないの?』とかなり強く問い詰めたこともありました。


しかし、母親は何を言っても



「‥‥‥」



と無視をきめこみ、私がそこにいないかのように、そのまま料理をしたり、お風呂に入ったり、化粧をしたりしました。

これが一番しんどかったです。
私が目の前で必死に問い詰めているのに、母親は私のことを一切認知せず、視界にもいれようともしないのです。
大声を出しても、物を投げ飛ばしても、私の存在は徹底的に無視されました。

私はたまらず、母方の祖母に助けを求めました。
しかし、この時の祖母の態度がまた私を苦しめました。

というのは、母は当時、外面が非常に良かったのです(嫌味ではなく、本当に二重人格だと思ってしまうほどでした)

そのため、母方の祖母に、母から受けた嫌がらせを0から100まで伝えても、「みよちゃんは多感な時期だからね~お母さんはそれでもみよちゃんのこと大事に思ってるんだよ~」と全く信じてくれず、余計に心がバラバラに打ち砕かれました。


「祖母にも裏切られた。誰も助けてくれない、自分でなんとかするしかない」と思いました。

私の人間不信が完全なものになったのは、ここらへんからかもしれません。

もう何もオブラートに包まずに言えば、母のことをあの世に送りたかったです。
当時は、周りにバレずに殺す方法をネット検索したりもしました。
過激な表現ですが、それほどまでに母に追い詰められていました。


極限状態での生活が続き、私は何度むかえたかわからない限界を感じていました。

絶望でした。
「学生時代を全て捧げてきた、結果がこれか。こんな仕打ちされるんだ」という思いが全てでした。

そんな生活の中、身体の方が限界を向かえたのか、私は母との口論で過呼吸になり、床に座り込んでしまいました。


■母との最後

母と会ったのはその日が最後です。

「私が家にくると、みよが辛い思いをしてしまうからもうこない。でも、私は悪くないから」ということを妹に言い残して、母は家を出て行ったみたいです。

理解に苦しむ言葉です。

その日から、母は一切家にこなくなりました。


■その後

それから、なんとか両親の調停が進み、私が大学生の頃にようやく離婚しました。

そんなこんなでやっと母から、精神的にも、物理的にも解放された私の人生が始まったのですが…苦しみはまだ続きました。


ケアの話はこれで一旦終わりにします。
思い出したことがあれば、またリライトしていきたいと思います。












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