あの頃は、若かった。そして今だって。

「中年」って、何歳から何歳までのことを指すのだろう。私は今年39歳になった。去年あたりから、背中の贅肉とか、腰の贅肉とか、おなか周りのたるみ(通称浮き輪)とか、夕方になるとどこからともなくやってくる浮腫みとか、階段上ると息が上がるとか、むしろ階段上らなくても息が上がるとか、愛猫に抱きつかれた(引掻かれたとは絶対に認めない)傷が半年以上治らないとか(ちなみに顔)、思春期とはまた一風異なるカラダとココロの変化が著しい。ちなみにココロの変化は、良いことづくめ。すべてのことを「まいっか」で流せるし、嫌なことは(必要なことと共に)すべて忘れ去っていくし、嫌いな人にも笑顔で「ごきげんよう」できるようになってきた。

私の背中に贅肉がつきはじめる前までは(つまり20代の頃は)、もちろん10代の頃ほど外見重視のぱっぱらぱーではないにせよ、人間の価値を、いや人間の価値の一部を「見た目」に求めていたような気がする。(もちろん、10代はそれがすべてぐらいの感覚だった。外見が良ければ人生大成功の保証書を握って生まれてきたようなものだと考えていた)
でもそれって、20代の私はそれなりに自分に自信があったからなのかな?自分の容姿が客観的に見てどうなのかはさておき、そこにある程度の自信があったから、そういう価値判断でいたんじゃないか?

世の中の”大人”は、人は見た目じゃないという。それは、経験値ももちろんあるけれど、人間の外見が加齢とともに「衰えなかった」としたら、同じ結果がうまれるのだろうか。
人間が「老い(=成熟)」とともに外見に経年的変化を迎えるのは、頭と体がしっかりリンクしていくために必要なことだったのかも、と腰肉が邪魔でいい姿勢を保ちづらくなってきた背中のことを疎ましく思いながら考えたのであった。

だから、精神的成熟を遂げるためには、ある程度外見をいけにえに捧げる必要がある。そう考えると、意味不明な校則(髪型がどうのとか、化粧するなとか、めかすな!というたぐいのもの)の存在にも少し同意を表明してもいいかな・・・・と思わせておいて、でもある程度内面的成熟が達成されていないと、あまり意味がないな。

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