昭和の風景 レンゲ畑

 インターネットで気になる記事を見かけた。

レンゲ畑にバス乗り付け、園児ら遊ばせた? 農園が困惑「種を買って米の肥料として育てています」

 記事によれば、神奈川県座間市で米や野菜を作る農家の田んぼにレンゲが咲いていたところへ、保育園か幼稚園のバス――通園バスだろうか――が乗り付けて、園児を遊ばせていた。人数は引率者含め10人以上いたという。知人の農家から「(園側と)契約してやっているの?」と連絡があり発覚したそうだ。

 レンゲはこの農家が田んぼの肥料とするために種を買って蒔いているもの。もとより田んぼは私有地であるが、立ち入りを防ごうとすると農作業に支障をきたす可能性もある。立ち入りを防ぐために花が咲く前に刈ることも考えなければならなくなる。レンゲが咲く田んぼにはマダニや毒蛇がいる可能性もある。等と訴えている。

 ふーむ。
 昭和40年前後に鹿児島の農村で幼少期を過ごしたわたしにとっては、驚きとともにいろいろ考えさせられた。

 わたしが育った集落は、道が何十枚かの小さい田んぼを取り囲むように通っていた。そこからゆるやかな坂が何本か延び、道の脇や、それぞれの坂の途中や上に民家があった。民家のほとんどは農家だ。田んぼもちろんそれぞれの所有者が管理していたが、子供が虫を捕まえるために田んぼに入るくらいは何も言われなかったし、レンゲが咲く季節になると、女の子たちはその時々でいちばんきれいに咲いている田んぼに入って花を摘み、花をつないで作った首飾りを掛けてそのまま家へ帰った。

 集落以外でも、学校からの帰り道の田んぼで、まさに道草を食ってレンゲを摘むこともあった。

 そんなのは、地域の大人の誰もが子供の頃にしてきたことで、子供とはそんなものという暗黙の了解と許容があった、と思う。もちろん度を越して踏み荒らしたりしたら怒られただろうが、広い田んぼで数人の子供が遊ぶことを、いちいち気にする人はいなかった。

 ここで言いたいのは、田んぼに入られて困惑する農家の不利益やルールについてではない。もっと広い意味での、子育てや、地域の中での関わりといったことだ。いまの子供たちは、近所の田んぼに咲いているレンゲを摘むことも難しいのかなぁ、とか、農家は「うちの田んぼには誰も入ってほしくない」と思うのだろうか、といったこと。人間の営みや関わりは、そんなに定規できっちり線を引けるようなものではないだろう、とも。

 ネットに出ている農家が、レンゲは種を買って蒔いているという点にも驚いた。レンゲといえば、毎年春になると田んぼに自然に「生えて」きて、時期がくれば一面に花を咲かせるものだと思っていた。そして、咲き終わった頃には田んぼに鋤きこんで肥料にする。少なくともわたしが子供の頃は、地域――のみならずおそらく日本中――の田んぼにとってのレンゲはそういうものだったと思う。でもいまの田んぼは、ほっておいてはレンゲは咲かないのだろうか。

 自給率がなかなか上がらない中で、日本の各地で農業に取り組む農家の皆さんには頭が下がる。とくに脱サラや移住までして農業を選ぶ比較的若い皆さんには、がんばってほしいといつも思っている。米も野菜も畜肉も乳製品もその加工品も、できるだけ国産を買うようにもしている。

 でも、資本主義や近代的な管理と農業はそもそも並存できるんだろうか。目的達成まで時間がかかり、自然条件の影響をもろに受け、やり直しが利きにくくい農業という生業は、人も制度も含めもっとゆるい環境のなかで見守り育てていくべきものなのではないだろうか。

 その全部が昭和にはあったとも思えないが、つまりは、あの頃のレンゲ畑はいろんな意味で「もうない」んだなぁと鼻の奥がツンとするのだった。

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