文字を持たなかった昭和 百五十七(チーコじいさん)

 母ミヨ子自身のストーリーから少し逸れる。

 夢に突然古い知り合いや亡くなった家族が現れて戸惑うことはないだろうか。以前もたまにあったが、noteに母親のことを書き始めてから、少しだけその頻度が上がったように思う。

 今日の明け方、亡くなった大伯父の夢を見た。ストーリーというほどのものはなく、元気だった頃の大伯父が現れたことと、なぜか大伯父の顔、鼻のあたりを拭いてあげたことしか思い出せないが。 

 大伯父は、母方の祖父・直二の実兄である。直二のきょうだいについては、「八(軍属)」で簡単に触れた。直二一家、つまりミヨ子の実家は、大伯父の家の敷地から短い坂を上がったところにあった。

 大伯父は清光(きよみつ)と言った。両親の世代は「清光おじさん」「清光おじ」と呼んでいたが、後にみんな「チーコじいさん」と呼ぶようになった。

 大伯父夫婦はある時期――昭和40年代半ば頃か――から、犬を飼うようになった。その名前が「チーコ」だったため、誰ともなく「チーコのうちのおじいさん」と言い始め、略して「チーコじいさん(鹿児島弁風に言うと、もっと縮まって「チーコじさん」)」と呼ばれるようになったのだった。

 ちなみに奥さんのほうは「チーコばあさん」ではなく、「おばあさん」と「おばさん」の中間とも言える「ばっばん」が当てがわれて「チーコばっばん」と呼ばれ、さらに略して単に「ばっばん」と呼ばれることも多かった。 

 当時農村で飼う犬と言えば中型以上で目的は当然番犬、犬小屋はもちろん外にあった。が、大伯父夫婦の犬はスピッツで、室内にも上げて飼っていた。当時屋内で犬を飼う家は極めて稀で、近所でも珍しがられた。チーコは白い毛が長く、赤いリボンもつけていた。スピッツらしく(?)甲高い声でよく鳴いた〈114〉。

 赤いリボンから、いまのいままで雌であることを疑っていなかったが、本当に雌だったのかはわからない(当時はペットのための避妊の発想はなく、雌は妊娠のリスクがあっただろう)。

 比較的体格のいい大伯父が小柄なチーコを抱いて庭に出ている姿を見かけることもあった。その姿は少しバランスが悪いようにも見えた。「チーコじいさんたちは、子供がいないからね」と親たちが呟けば、子供たちは「だから家の中で犬を飼うのか」となんとなく納得するのだった。

 「八(軍属)」でも触れたように、大伯父は海軍の軍人だった。もちろん、戦後は軍人という身分自体がなくなったし、年齢から言っても、わたしが物心つく頃にはいわゆる恩給生活に入っていただろう。奥さんである「ばっばん」は専業主婦だったが、生活が安定しているうえ子供がいないせいか、家はとても裕福に見えた。床の間には、祖父の家ではまったく見かけない立派な掛け軸が掛かり、頂き物と思しき包みがいつもいくつも重ねてあった。

 ミヨ子一家とチーコじいさん夫婦とは、ミヨ子にとっての伯父さん夫婦としても、同じ集落のご近所さんとしても近い関係にあったはずだが、海軍軍人であった「チーコじいさん」は戦争が終わるまで外地にばかりいたせいか、熊本出身の「ばっばん」が話すのは在所の言葉と違ったせいか、なんとなく近寄りがたい雰囲気があった。

 「チーコじいさん」は、裕福な生活を楽しんでいるようには見受けられなかった。それなりのお付き合いもあったはずだが、いつも穏やかに微笑み、所在なげに家にいる姿しか思い浮かばない。いま考えてみれば、現役時代誇り高く国防に励み、在所の人をはじめ国民から尊敬の視線を受けていたはずの「チーコじいさん」は、戦後その評価がまったく変わってしまい、自分をどう位置付けてよいか迷う日々だったのかもしれない。

 一方の「ばっばん」は、集落の主婦のほとんどを占めるそれほど教育水準が高くない農家の嫁たちの上に君臨し、集落はもとより、地域や町の婦人会の役員を買って出て、活発に活動していた。県や全国の退会にも参加していた。「このへん(鹿児島)の言葉もしゃべれないのにしゃしゃり出て」と陰口をきく奥さんもいるほどに。

 これもまたいまにして思えば、「チーコじいさん」の社会的空白を、そして子供のいない寂しさを埋めたいという潜在的欲求が「ばっばん」を駆り立てた、のかもしれない。ただ、この「ばっばん」の存在は、親族の中でだんだんと手に負えないものになっていく。そのことは、いずれ書く――かもしれない。書かないかもしれないが。

 夢枕に立った「チーコじいさん」は、わたしに何かしてほしかったのだろうか。あるいは「よけいなことは書くな」と言いたかったのだろうか。(2022年8月30日 記)

〈114〉日本スピッツは白いジャーマンスピッツを改良した日本犬種で、昭和30年代に飼育ブームとなったが、無駄吠えや噛みつきなどからブームは下火になった。現在ではさらに改良され飼いやすくなっているらしい。

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