文字を持たなかった昭和 四十一(おめでたでも)

 ミヨ子(のちのわたしの母)の嫁ぎ先では、農業の経営拡大のためミカン山の造成に励んでいた。その最中に判明したミヨ子の「おめでた」。家じゅうが喜んだものの、大切な働き手でもある嫁に「体調を見ながらぼちぼち働きなさい」と言えるような状況ではなかった。

 さすがに開墾の現場でミヨ子に力仕事をさせるようなことはなかったものの、家事は相変わらず任された。洗濯機などの家電がまだない時代、開墾で日々汚れる衣類を含め、家族4人分をタライと洗濯板、固形石鹸を使って手で洗濯するのも、もちろんミヨ子の仕事だった。台所も竈で煮炊きしていた。

 開墾の現場にはお昼ご飯を運んだ。家から山の麓あたりまでは歩いて20分くらい、そこから山道を登っていく。道は造ってあったが、足場代わりに石をところどころ置いただけの簡単なもので、人が通れる程度の幅だった。

 舅と夫の男二人に姑も加わっての力仕事の現場なので、それなりの量のご飯を運ばなければならない。お茶をわかすのに山の湧き水を使えるのはありがたかった。持って行ったやかんに水を汲み、石で簡単な竈を組んで火を起こし、お茶を淹れた。昼ごはんが終わると、開墾で掘り起こされた木の根などを片づけた。

 乾いた木の根は薪にもなる。木の根以外にも、自然に落ちた枝などを拾い集めた。お昼ご飯の道具とともに、薪にするものをまとめて担いで帰った。手ぶらで帰るなんてもったいなかったから。お腹がだんだん大きくなっても、ミヨ子の山通いは続いた。

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