文字を持たなかった昭和382 介護(1)当時の状況①

 ここ(note)では、昭和中~後期の鹿児島を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 少し前まで、昭和50年代前半にミヨ子たちが取り組んだハウスキュウリを取り上げた。ここらで趣向を変えて、ミヨ子が「嫁」として仕え、最期を看取った舅と姑の、亡くなる前の介護の様子を記しておきたい。もちろん、娘であるの二三四(わたし)の目から見た範囲であり二三四の体験も含まれるが、当時の農村の主婦の役割のひとつとして記録することも意識したいと思う。

 「介護」とひとくちに言ってもさまざまな形態がある。ここで述べるのは在宅介護のことだ。それも、昭和40~50年代(概ね1970年代後半~80年代前半)の、鹿児島の農村の一例だ。ここでは、その頃の介護が社会の中でどう見られていたか、行われていたかを、ミヨ子を実例として振り返ってみたい。

 まず強調しておくべきは、当時は「介護」という言葉、概念すらなかった、ということだろう。あえて言えば「お年寄りのお世話」だろうか。その「お世話」は、基本的に家族が担うのが当然と考えられていた。そしてお世話する「家族」は、ほぼほぼ女性であり、多くの場合は主婦、それも「嫁」だったと言って差し支えないだろう。ある程度の年齢に達した子供が家の中にいれば、子供も「お世話」を手伝うことがあったが、その場合もほとんどは女の子だった。当時でいう「適齢期」を過ぎて結婚していない娘がまだ家の中にいれば、その娘が担うこともあった。いずれにしても、ほぼすべてのケースで「お世話」は女性が担っていた。

 ちなみに、いまでいう認知症の舅を巡る嫁の葛藤を描いた『恍惚の人』(有吉佐和子)が刊行されベストセラーになったのは1972年。女性の社会進出が進みつつある一方、栄養や衛生、医療の向上により長命な高齢者が増える中、家庭での「お年寄りのお世話」の問題が徐々に顕在化していった時期だろう。当時は「認知症」という言葉もなく、長い間「老人性痴呆」と呼ばれていた。

 やがて国全体での高齢化に伴うさまざまな問題が提起され、将来のさらなる高齢化に向けて「介護保険法」が制定されたは1997年、制度の施行は2000年である。介護が制度に組み入れられ、公的事業として定着したのはつい20年ほど前なのだ。いまでも親に在宅で介護を施すことを「親孝行」とみなすのは一般的なのだから、公的制度がない時代では、在宅での介護は当然だった。

《参考》
厚生労働省ホームページ「介護保険制度の概要」1. 介護保険とは

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