文字を持たなかった昭和 二百五十六(事始め)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちのお正月。年明け、元日正月料理について書いた。今日は3日だが、本来2日の「事始め」についても書いておこう。

 2日はいろいろなことが動き始める。元日には控えた掃除、お風呂の支度。これはミヨ子の仕事だ。子供たちは書道セットを取り出して「冬休みの友」を参考に書初めに挑む。せいぜい集落内だった元日の年始挨拶から、本格的な年始回りが始まり、夫の二夫はあちこちに出かけていく。上の子の和明は、近所の悪ガキ仲間たちと凧揚げなど外の遊びに夢中だった。おかげで家の中は比較的静かでもあった。

 昭和中期から、テレビでは正月に芸能人による「新春かくし芸大会」が放送された〈136〉。舅の吉太郎がいる頃はそれほどテレビにかじりつかなかったが、吉太郎が他界してからは、姑のハル、下の子の二三四(わたし)とでこたつに入り、のどかなお笑い番組をテレビで楽しんだ。ミヨ子にとっては何よりの骨休めだった。

 正月料理に書いたように、当時ミヨ子たちが住む地域では――鹿児島全般かも?――一般的なおせち料理はなかった。お節料理についてはよく、「正月だけでも主婦が忙しい思いをしなくてすむように日持ちのする料理を用意した」とか「『切る』は縁起が悪いので、包丁を使わなくてもいいようなものを作っておいた」などと言われる。

 ミヨ子たちの地域では、「正月だから包丁を使わない」ということはなかったし、作り置きの料理でも温め直して出したりした。そもそも雑煮は都度食材を切って汁を煮たてなければならない。ましてお客が来れば、温かい料理を出していた。

 正月だから主婦も解放されて、という状況からはほど遠かった。

〈136〉1964~2010年。放映日は年により元日から3日の間で変わった。放送開始から視聴率は30%代後半から40%、最高は48.6%(1980年)と、大晦日の紅白のあと、お正月には必ず視る番組と言ってよかった。
《参考》https://ja.wikipedia.org/wiki/新春かくし芸大会


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