文字を持たなかった昭和391 介護(10) 姑④徘徊

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書き始めた。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった「当時の状況①」「当時の状況②」に始まり、舅・吉太郎(祖父)のお世話の様子(舅①舅②)に続いて、姑・ハル(祖母)のお世話について述べている。

 昭和40年代の終わり、屋敷の敷地の入口でぼんやりしていたぐらいのハルだったが、ある日一人で出かけてしまった。「どこへ行くの」と聞くと「家に帰る」と言う。

 その時はミヨ子の夫・二夫(つぎお。父)が大過なく連れ帰り、何事もなかったように家族でご飯を食べた。食事して落ち着いている様子は、ふだんの、というかそれまでのハルと変らないように思えた。

 ただ、ハルのそれまでの些細な変化を、家族は認識できていなかったと思う。

 昭和40年代後半、一家の経営の主力は、まだハウス栽培のスイカだったが、スイカで上げられる収益はだんだん減少してきており、昭和50年代に入る頃には経営の転換も考える時期に来ていた。補助的に肉牛を飼った時期もあるが、納屋に1頭では収益は限られたし、そもそも二夫は肉牛飼育を専門にしているわけではなかった。

 稲作は当然のように続けていたが、「減反」と呼ばれる生産調整は始まっており、米は消費も価格も伸び悩んでいた。農業を取り巻く環境は激しく変化し、かつては地域の生産者の若手代表のような存在であった二夫も、中年になり変化への対応に頭を悩ませていた。

 一方で成長した子供たちは自分なりの生活を切り開きつつあった。長男の和明は高校に入り、通学に時間がかかるようになったうえ、子供の頃から習っている剣道に熱中していた。下の二三四(わたし)も中学に進んで部活を始めた。それぞれ、平日はもちろん土日も練習が入ることが増えた。新しい世界を広げるのが忙しく、お年寄りの相手まにで手も気も回らなかった。

 当時は、どこの家のお年寄りも年齢とともにおとなしくなり、活動範囲が狭まり、やがて体が衰えて亡くなるもの、と思われていた。だから、ハルが家の中であまりしゃべらなくなっても不自然に思わなかった。それが「年をとること」だとみんなが思っていたから。

 しかし、だんだんしゃべらなくなること、会話が少なくなったりぼおっとしているのが増えたことは、必ずしも体の老化を表していなかったはずだ。

 もともと足腰が丈夫なハルは、一人で外を出歩くときもその「実力」を発揮した。ミヨ子たちが農作業に出て、子供たちは学校に行っている間、ときどき近所を歩きまわるようになった。

 そのうち
「〇〇の辺りでハルさんを見かけましたよ」
と近所の人が教えてくれるようになったのだ。裸足で歩いていることもあった。もっともハルはちょっとした農作業は裸足ですることもあったから、家族にとってそれは特別驚くことでもなかった。

 ただ、〇〇が集落の中ならまだいい。連れて帰るのにもそう時間はかからない。何よりみんな顔見知りだから、様子がおかしければ、二夫たちを探してでも知らせてくれるはずだ。

 しかし、〇〇が遠い場所だと厄介だ。この頃には、よそのお宅の「ボケた」お年寄りが、とんでもない場所まで歩いていって見つかる、というケースも聞かれるようになっていた。車の往来が多い国道附近はもともとハルの行動範囲ではないが、ハルの足では歩いて10分もかからず国道に出てしまう。逆に、ミヨ子が嫁いで間もなく開墾に加わったミカン山〈173〉に、懐かしさでも感じて入ってしまわれたら、探すのは難しい。この頃にはほとんど手入れをせず、雑木林になりつつあったから。

 農作業のときは基本的に昼ごはんを食べに帰る。午前中の比較的短い時間にはハルも家にいた。しかし、日が長い季節に、午後の作業に出て少し暗くなってから帰る場合、けっこう長時間ハルを一人しておくことになる。少し遠い田畑に出る場合はなおさらだ。子供たちの帰りは当てにならない。

「おふくろは脚が丈夫だからなぁ」
二夫は誰にともなく呟いた。ミヨ子は、ハルが一人で勝手に出かけることが増えるといろいろ面倒だと思ったが、口には出せなかった。

〈173〉ミカン山の開墾については「三十七(山林)」「三十八(開墾1)」「三十九(開墾2)」、で述べた。開墾作業の負担からミヨ子は最初の子を死産している。(四十一(おめでたでも)


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