文字を持たなかった昭和 百十九(豆腐)

 ミヨ子(のちのわたしの母)の嫁ぎ先で夏場の昼ごはんと言えば、「百十八」で書いたそうめん以外に、冷奴がときどき登場した。ありきたりと思われそうだが、ミヨ子が農作業と家事、そして子育てと多忙を極めていた昭和30~40年代、ミヨ子たちの集落の近隣にはまだスーパーマーケットのような施設はなく、ふだんの買い物は歩いて10分くらいのところにある近所の食料品店兼雑貨店(やや規模が違う店が2軒あった)に行く程度だった。

 そもそも、家で食べるものはほとんど自給自足だったので、買うのは自分で作れないものに限られた。そして、自分で作れないもののひとつに豆腐類があった。

 豆腐はいまのようなパック入りではない。2軒の食料品店でも豆腐は売っていたが、豆腐屋から卸した豆腐が、水を張った大きな容器の中に入れられていた。お店の人――どちらも店員を雇うほど大きい店ではないので、店主かその家族――が容器の中から掬って、客が家から持参した入れ物に入れてくれるのだ(ビニール袋が普及してからは、入れ物を持参しなくてもよくなった)。

 ただ、エアコンや店舗用冷蔵庫がまだ普及していない時代、豆腐を入れた容器に張った水はただでさえ劣化しやすいうえ、お店の人が不用意に手を突っ込んで豆腐を取り出すこともあり、お世辞にも衛生的とは言えなかった。

 食料品店にも卸している豆腐屋は、ミヨ子たちの家から歩いて15分くらいのところにあった〈101〉。国道3号線沿いではあったが、店の建物が道路から少し上がったところにあるので、通りすがりに気付くことは稀で、地元の人しか利用していなかった。近隣の人たちは店主の苗字を取って「久保の豆腐屋」と呼んでいた(これはわたしの記憶だ)。

 家からここまで豆腐だけを買いに行くには少し面倒だが、新鮮な豆腐で冷奴を食べたいときは買いに行くこともあった。豆腐屋の近くにミヨ子たちの田んぼが何枚かあったので、昼ごはんや晩ご飯に食べるため、田んぼの帰りに買うことも。(農作業帰りに買うために入れ物を持参していたとは思えないので、これはビニール袋が普及してからのことかもしれない)

 豆腐は木綿豆腐の一種類しかなかった。そもそも当時、ミヨ子たちが住む鹿児島の農村に「絹ごし豆腐」という商品、概念自体がなかった。豆腐といえば即ち立方形のどっしりした木綿豆腐だった。

 それをいくつか買って帰り、舅の吉太郎や夫の二夫(つぎお)は一丁、姑のハルやミヨ子、子供たちは半丁ずつに、ミヨ子が削ったやや分厚いカツオ節を乗せ、鹿児島の濃くて少し甘い醤油をかけて食べるのだ。豆腐屋から買ってきた豆腐は、食料品店で買うものより冷たくて味が濃いように感じられ、ご飯が進んだ。

 薬味というほどのものはなかった。薬味を添える習慣自体がなかったとも言える。テレビが普及し料理番組で「よそ(都会)」のしゃれた料理を見聞きするようになると、シンプルな冷奴に小口切りのネギや茗荷を添えて「薬味」と称するということをミヨ子たちも学んだが、それを実生活で実践するセンスは別のものだった。

 ほかにおかずはなく、せいぜい朝作ってあったみそ汁を添える程度だったが、冷奴のおかずには家族がみな満足した。

〈101〉豆腐類の購入については「百七(料理―みそ汁)」でも少し触れた。

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