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台風災害の記憶〜恐れを忘れず毎度備える

大きな台風が近づくたび、子どもの頃に経験した水害のことを思い出す。
実家のある小豆島は、昭和49年とその2年後の51年に甚大な台風被害を受けた。

小豆島 災害の記憶より

私は当時6歳と8歳。両親と5人姉妹が住む実家は2度床上浸水した。2つの災害の記憶が混じっているが、断片的に今でもはっきりと覚えている光景がある。

1回目は七夕の頃。大雨に満潮が重なった。近所には川があり、うちの家は川より少し低地にあった。「水や!水が来よるぞ!」と近所の人が叫ぶ声。あわてて家の外に出ると、川から溢れた水が道路に沿って少しずつこちらに向かってきている。その水が、一軒また一軒と玄関先にスーッと忍び込んでいくのが見えた。「水がきよる!」私は家族に向かって叫んだ。水かさが増していく中、母は慌てて必要最低限のものを取り出していたように思う。「早よ2階に上がり!」という声で私たち姉妹は階段を駆け上がった。

2階の一室に家族7人身を寄せた。停電して真っ暗な中、窓の外に何度も稲光を見た。一向に止まない大雨。姉妹で布団に潜り込んで「早よ止んで!」とみんなで泣いた。食べ物も飲み物もなかった。おしっこも2階の窓からした。

次の日だったか、救助隊が食べ物を運んでくれた。円柱状のビンで上がプルトップになっている「つぶつぶオレンジ」と食パン。お腹が空いているはずだったが、緊張状態が続きすぎてドキドキして喉を通らなかった。

2回目の台風は9月。数日にわたる長雨だった。避難する前に川の堤防が決壊し、激しい濁流が家の裏から押し寄せてきた。「ゴーーッ!」っというものすごい音を立てて入り込んでくる茶色い水。2階の窓から外を見ると、目の前の道路はもはや激しい川になっていて濁流とともに家財道具が次々流れて出ていくのが見えた。1回目の浸水とは全く違う激しさだった。2階から恐る恐る階段を覗くと、一段また一段とその激しい流れが上ってくるのが見えた。「家ごと流されるんじゃ?」そう思ったが、怖くて誰もそれを口には出せなかった。

父が向かいの住人と2階の窓越しに声を掛け合う。「大丈夫かー!」と叫ぶが目の前の相手の声が聞き取れないほどの轟音だったのを覚えている。私たち姉妹が不安そうにしているのを見て、普段は大人しい母が開き直ったように「死ぬときはみんな一緒や!」と言った。気丈な姿を見せた母も本当は泣きたかったに違いない。子ども心にも「死ぬかもしれない」という実感があったこの時の緊張感は今も忘れない。

濁流が収まった後、自衛隊のボートが迎えにきて私たちは役場に避難した。鉄筋コンクリートの建物に安心感が増す。避難してきた子どもたちみんなで雑魚寝をした。非日常の緊張や興奮で眠れぬ子どもたちに、近所のおっちゃんが大きなオナラをかまして笑わせる。みんなでゲラゲラ笑ってやっと安心して寝た。子どもたちを守ろうと大人がみんな気を張ってくれていた。

この2つの台風で多くの人が犠牲になった。人間が「これくらい」と思っている想像を自然ははるかに超えてきた。3年のうちに2度もこんな大きな災害が起こるなんて誰が想像しただろう。

「天災は忘れた頃にやってくる」物理学者で随筆家の寺田寅彦氏の言葉だ。防災学者でもあった寺田氏は災害を防ぐためには「起きてしまった災害を忘れることなく日々の備えをするしかない」と言う。

今や何年に一度と言われる災害が毎年のように起きている。決して他人事ではないが、災害の恐ろしさを経験したはずの私も「大丈夫」を重ねていくうちにいつしか恐れが油断に変わってきていると感じる。

「大丈夫だろう」と高をくくらず、毎度備えることが大事。恐れを忘れないことが人を守る。台風は事前に備えて身構えることができる。
私も備えます。みなさんもどうぞお気をつけて。

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