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SMAPは誰のもの? 〜みんなの所有欲をちょっとだけ手放したらたぶんオーライな話

MIYOSUI的こころ
「#16 SMAPは誰のモノ?」
CRECE LAVOS通信
(2016年3月10日掲載)

2016年、何かと騒がしく始まりましたね。
国民的アイドルの解散騒動。「解散」って聞いたらそりゃ衝撃やし、残念やなぁと思う。でも「SMAP解散したら日本は潰れるんか?」くらいの過剰な反応というか、1アイドルグループへの依存度には危うさを感じます。

諸行無常、形あるものはいつかは壊れるんですわ。終わりがあるという前提があるから今が有り難く美しいわけで。失うものあれば、また新しく生まれるものもあるやろうしね。

あんなにたくさんのHappyをみんなに与えてくれた彼らが、悲壮な顔で頭を下げている。誰に、何のために? SMAPって一体誰のものなんですかね?

さて、私の中では目の前にある物や人、環境に対して「自分のもの」というおごりをもってしまうとバランス崩れるなぁという感覚がありまして。

例えば付き合っている相手やパートナーに対して。自分の思うようになってほしいという欲が出ると相手を尊重できなくなって、関係にひずみが生じることってあるでしょう?友人だったり、自分の子どもだったり、そうだ、好きなアイドルに対しても同じですかね。たとえどれだけ親しい間柄でも、その人はその人であって自分のものではない。情という名の執着が相手を苦しめることになる。

お手柄や成功もそう。自分一人でできたとか、自分のものって思っちゃったら、自分自身のバランスとか周囲とのバランスが微妙にずれてきますよね。

学校の中で考えると、例えばグラウンドや教室という環境。自分たちのものって考えると好き勝手に使いがちです。でも、長年その場所に息を吹き込み、大事に使ってきてくれた先輩がいるからこそ私たちも使うことができているわけで。先輩と同じく、自分たちそしてやがてここを使うであろう次世代のために、大事に使うという気持ちは大切な気がします。

今あるものをとおして、時間軸でそれにかかわった人たちやこれからかかわる人たちを想像するという奥行きのある視野をも持てば「自分のものじゃない。大切に使わせていただく」という想いになります。

伝統もしかり。その時々に試行錯誤しながら、ときには辛抱しながら受け継いできた先人がいるからこそ存続している。そう考えると、今自分たちが活動できていることに感謝が湧くし、私的な思惑だけでどうこうできないなという責任感のようなものが生まれる。時代とともに変化させたり、時には失わざるを得ないこともあるでしょうが、そこにまつわるさまざまな存在を意識しているのとしていないのとでは、決断の重さや価値が変わってくるように思います。

私は身近な人の死に直面したときに、一人の人間の存在がいかに周囲の人の安心につながっているかということを実感し、自分の命さえも自分だけのものではないという感覚を覚えました。

親しい人、当たり前にある環境、学校は?会社は?町は?日本は?地球は?
一体誰のもの?

考え方は人それぞれでしょうが、我が物とおごらず、無関心に離れず、半歩くらい下がって謙虚に眺めるくらいの余裕をもてば、少しはよいバランスを保って大切にすることができるんじゃないかなって思います。

人間の性(さが)っていうかね。自己顕示欲とか独占欲とか、ちょっと気を抜いたらフラ〜っと出てきよるでしょ。自分の中にいる厄介な敵ですよ。調子に乗っちゃって我がもの顔になってると、私の歴史上、大体バランス失って人生急降下しています。なので、この縁の切れない厄介ものが現れるたび「あー、あかんあかん!」って、内なる敵と闘う日々です。な〜む〜。

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