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【短編小説】さよなら、がんちゃん

 一匹のシロクマが死んだ。
 がんちゃんは僕の友達のようでもあり、子どものようでもあった。何よりがんちゃんは、君と僕が育んだ愛そのものだったと今では思う。

 眠そうな顔したシロクマの赤ちゃん。
 がんちゃんは「いもフライ」が好きだった。
 「いもフライ」は栃木県佐野の名物だ。

 
「今日はさよならを言いに来たんだ。がんちゃん」

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

 地球温暖化の影響で北極の氷が溶ける。
 その上で暮らしていた動物たちは今、絶滅の危機にあった。
 そんな中、一匹のシロクマの赤ちゃんが、親と逸れて流氷に取り残されてしまった。
 オホーツク海の冷たい風が吹いて流氷は南下する。ふらふらとシロクマの赤ちゃんを乗せた流氷は、右に流れ、左に流れ、嵐を越えて小さな島国にたどり着いた。
 
 僕が、がんちゃんと出会ったのは、僕がはじめて佐野に行ったときのこと。

 君は佐野駅まで黄色の車で迎えに来てくれた。ひまわりみたいなその車の色は、僕の目にとても幸せな色に映った。
 僕が助手席に乗ると、がんちゃんが後部座席で「いもフライ」を食べていた。そりゃもう、驚いたよ。シロクマの赤ちゃんが、「いもフライ」を食べてるんだから。

 それから僕は、君とデートする時、がんちゃんとも遊ぶようになった。

 がんちゃんはボール遊びも好きだし、ダンスも上手かった。
 陽気な音楽を流せばノリノリで手や腰を振って僕たちを笑わせた。拍手をすると、嬉しそうに照れ笑った。

 僕たちは3人で「いもフライ」を食べた。
 がんちゃんがおかわりを欲しがったから、一つ残して、それをがんちゃんにあげた。すると君が「優しいね」って僕に一つくれた。

 君の運転する黄色い車に揺られて、僕たちは佐野のいろんな場所を巡ったよね。
 アウトレット、渡瀬橋、八雲神社、佐野厄除大師、旧足利学校、行列のできる佐野ラーメンの店。
 なかでもお気に入りは『クサキマリノ』という店だ。入り口がオシャレな、多国籍料理の店。

 君と付き合って、僕には好きなものがたくさん増えた。
 いもフライ、佐野ラーメン、クサキマリノ、森高千里の楽曲『渡瀬橋』、僕はどんどん佐野が好きになっていった。

 そして、寒い夜はがんちゃんを抱きしめた。サラサラと気持ちの良い透明な毛並みと小さい身体の温かい感触は、今でも僕の腕の中に残っている。

 がんちゃんはいつのまにか、僕たちの子どものようになっていた。僕と君の子ども。僕と君の、愛の架け橋。

 がんちゃんと君が、東京まで遊びに来てくれた事もあったね。そんな時は、新宿や高円寺のアーケード街を歩いたね。
 なかなか会えない時は、越谷のカフェや越谷レイクタウンでデートする。もちろんがんちゃんも一緒に。美味しいカレー屋も見つけたよね。

 僕たちはよくがんちゃんに、赤ちゃん用の服や靴、帽子を買って着せて写真を撮った。
 北極から来たがんちゃんだから、暑くてすぐに脱いでいたけど、洋服を着たがんちゃんが可愛くてたまらなくて、僕たちは夢中でカメラのシャッターを切った。がんちゃんはいつもみたいに片手を首の後ろに回して、照れ笑った。
 何もかも満たされた気がした。

 北極の氷が溶けて住む場所を失ったがんちゃんが、小さな流氷に乗って流れついた日本。そこから旅をして、ようやく見つけた愛の居場所。
 僕たちはずっと、ずっと、がんちゃんの居場所でありたいと願った。

 僕たちは何時間も見つめ合った。
 がんちゃんはすやすや眠っていた。
 僕は君にキスをして、
 君も僕にキスをした。
 僕は君を抱きしめた。
 僕たちはとろけるように愛し合った。


 2年と半年が過ぎた頃、
 僕にはもう他に好きな人がいて、
 君にも、もう他に好きな人がいた。
 僕たちはもう一緒にはいられなかった。
 最後の日、がんちゃんは僕を呼び止めるように大きな声で泣いた。耳が引きちぎれるくらい高い声だった。
 胸が切り裂かれたように痛かった。
 僕は耳を塞いで、急いで佐野駅に向かった。

 半年後。
 久しぶりに君から連絡が来た。
 がんちゃんが保健所に引き取られてしまった、って。君は「嫌だ」って叫んだけど、保健所の職員たちは「このままではいつか、君を傷つけるから」と、聞いてはくれなかった、って。

 がんちゃんはちょっと戯れ合うだけでも、相手を傷つけてしまうほど、大きく成長してしまった。これが自然界の摂理だ。
 もう一緒には遊べない。

 がんちゃんは保健所の中で泣き続けていた。
 もう一度、外で遊びたいよ、
 もう一度、いもフライが食べたいよ、
 もう一度、君と僕に会いたいよ。
 そう叫んでいるに違いなかった。

 がんちゃんの声が聞こえた気がして、思わず僕は佐野の保健所に向かった。
 清澄白河駅から東武東上線に乗って、館林駅で乗り換える。足利を過ぎて佐野駅に着く。もう君の黄色い車が迎えに来ることはない。僕は佐野市役所前行きのバスに飛び乗った。

 佐野市役所前でバスを降りると、僕は保健所に向かって走った。保健所が見えてくると力の限り「がんちゃん」と叫んだ。

「がんちゃん、がんちゃん!」

 そんな僕の声を聞いたのか、がんちゃんも精一杯の力で保健所を飛び出してきた。突破された扉が、ガタンと地面に落ちる。保健所の職員たちは慌てふためき、混乱と怒号の渦に見舞われた。

「ホッキョクグマが逃げたぞ!」
「住民に避難勧告を出せ!」

 麻酔銃を持った5〜6人の職員達が、一斉に外に飛び出してきた。

「撃て!」

 麻酔銃から発砲されたダートが、がんちゃんに次々と突き刺さる。それでもがんちゃんは止まらなかった。思うように動かなくなった身体を引きずり、口を開いて泡をふきこぼしながら、僕のところまでやって来た。
 もう一度昔のように甘えたくて、「いもフライ」を一緒に食べたくて、拍手してもらいたくて、血を流しながらやってきたんだ。

「人がいるぞ!」
「危険だ、逃げなさい!」
「猟銃を準備!構えろ!」

 鋭い爪と強靭な腕力を持つがんちゃん、その手に少し触れただけでも、人の骨なんて簡単に砕けるという。
 それだけ人間は脆い。
 人間には、がんちゃんの、ほんの少しの愛ですら受け止められる強さなんて持ち合わせていないんだ。
 僕が弱いから……僕が弱かったから……。

「がんちゃん」

 僕はただ、がんちゃんを受け止めたかった。僕は両手を開いて、がんちゃんの目を見つめた。

 その時、僕を助けようとした誰かの猟銃が、火を吹いた。

 あの時のことを思い出す。
 僕が運転した黄色い車は、細い畦道を通る途中、ハンドルを取られて田んぼに横転した。犬に吠えられながら、僕たちは近くの家の人に助けてもらった。車は軽トラのアンカーで引いて起こしてもらった。君は怒って、僕は途方もなく恥ずかしい気持ちになった。

 僕は誰かを助ける気でいて、いつも誰かを傷つけていた。僕はずっと誰かを傷つけながら、今も生きている。
 君は嘆いた、僕のせいだ、って。
 僕もそう思った。

 今日、僕は一人、がんちゃんに会いに来た。
 君がいない佐野に。
 見渡せば、初めてここに来た3年前と何も変わらない景色があった。どこかに君がいる気がして、思わず目で探してしまう。いや、どこにもいるはずがない。君は今頃、横浜で新しい恋人と暮らしているのだから。
 ああ、思い出す、楽しかったあの頃を。

 がんちゃんのお墓には「いもフライ」を添える。そして森高千里の『渡瀬橋』を聴きながら、帰りの佐野駅に向かった。
 さようなら、夕陽が綺麗な街。


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