残酷な王子様と人魚姫のエゴイズム

「ゆれる人魚」という映画が好きです。

2018年に公開されたポーランドのホラー?ファンタジー?映画なのですが、歌で人を虜にする人喰い人魚(この場合おそらくマーメイドではなくセイレンでしょう)の姉妹がバンドに拾われてナイトクラブで歌い踊るようになるという物語。
適当に楽しんで人を喰ってやがて都会へ旅立とうと画策する姉妹ですが、そのうちに姉がバンドのベーシスト青年に恋をしてしまうところから悲劇が始まります。

ミュージカル仕立てのこの物語はとにかく映像も音楽もキッチュでポップで可愛くてかっこよくて、演出にも適度に謎があって何度見ても本当に飽きないのですが、やはりベースには「人魚姫」のストーリーがあります。

あまりネタバレしないように説明するのは難しい、というかまあ人魚姫と言ってしまえばだいたい予想が付いてしまうわけですが、予想にたがわず歌声と引き換えに足を手に入れた姉人魚の末路に向けて物語は加速。
ここで私が胸を打たれたのは、ベーシストの青年があくまでも人間で、まともで、優しくて、好奇心が旺盛でちょっとエッチで、そうしてとても残酷だったということでした。

そう。王子様はいつでも優しくて残酷だ。

彼に――彼らに悪気はないのです。ただ、目の前に差し出された愛情を受け取り、好奇心の趣くままそれなりに応えようとしてはみるものの、結局自分の許容量を超えるその重みに対応できなくてその愛情を手放した。ただ、それだけのことなのです。

差し出されたらから受け取って、抱えきれないから手放す。そこに責任はあるでしょうか。最後まで許容できないなら受け取るべきではないのでしょうか。無理をしてでも手放さずにいるべきなのでしょうか。

彼のことを酷い男だという視聴者は多いと思いますが、果たして本当にそうなのか。

この映画を見終えた私が感じたのはその疑問でした。

私も、尽くしては裏切られる恋愛を何度もしてきました。好きな人に浮気をされたり心変わりをされたり捨てられたりするのは悲しくつらいことではあります。

でも私の差し出す愛情を、彼らは最後まで投げ出さずに受け止め続けるべきだったのか。その答えは私には分からない。

だって私の愛は私が勝手に抱いているもので、それをひととき相手が受け取ってくれたとて、そのことにより何かしらの責任が生じるものとは思えないからです。例えば結婚は契約だけれども、変わる気持ちを止めることなんかは誰にもできない。姉人魚は自らの歌声と肉体で王子様を誘惑します。その誘惑に乗ることは果たして一生たがえることができない罪なのか。

だけど愛する相手を失ったら消えてしまいたい気持ちにもなります。それこそ、海の泡のように。

彼らが私を手放すことと、私が消えてしまいたい気持ちになること。その間には因果関係はありますが、責任として負わせるべきものではないのではないか、と、普段「愛が重い」と言われがちな私は思うのでした。

王子様は残酷なのか。彼は自分の気持ちに嘘を吐いて我慢するべきだったのでしょうか。

愛せないことに責任はあるのかな。


おそらく、人魚姫もそう考えたに違いありません。それは自己犠牲でも無償の愛でもなく、自らのエゴを知るということです。

愛するという私のエゴを相手には受け取る義務なんかない。

それがよく分かっているからこそ、なのにそのエゴを捨てることができないからこそ、人魚は泡になりたいと願うのではないでしょうか。私は消えてしまいたいと思うのではないでしょうか。

本当はその衝動を乗り切れば、次の恋はいつかやってくる。または傷が癒えて忘れられる日が来てしまう。この人でなければいけないなんて、そんなことはないのです。そんなことは重々分かっています。
それでも、その日が来ることを拒みたい。この気持ちを抱いたまま泡になりたい。そう願うことこそ、また、自分勝手なエゴに他ならないのでしょうね。



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