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もしも、いなくなりたいと思ったら

私は、気分の落ち込みが激しい。
心配されても、それはそれで別のつらさが増してしまうから、なるべく表には出さないようにしている。だいたいバレるので意味はないのだけれど。

心配してくれる人がいるのは有り難い。しかし、誰かへ心配事や心の痛みや無力感を伝えようとすると、無意識にへらへらしてしまったり「でも大丈夫。そんなに深刻じゃないから」と取り繕う悪癖があるから、話さないようにしている。

ここだけの話だけれど、自分に嘘をつくことは緩やかに自分を殺しているようなものだ。だから実際は話すこと自体が大丈夫じゃないし、へらへらとしていても内情は本当はとても深刻なのだ。

話すと楽にはなるけれど、それは人に話して客観視できて状況が整理されて落ち着いたような感覚になるからであって、根本的解決を目指すならば、私が私を引っ張り上げなくてはいけない。どんなことでも、自分を取り巻く環境は自分が最終的に選び取らないといけないのだ。
溺れている自分を、溺れている自分が救助するなんて、どう考えても大丈夫じゃないし、正気じゃないとも思う。誰か助けてくれればと、少しだけ思う。

しかし、だ。我ながらとても可愛くない精神だと思うが、弱ったところで常に誰かが手を差し伸べてくれる訳でもないし、話しただけで事態が解決するわけでもない。
過度に心配されたりして「思ったよりも心配されてしまった。私、客観的に見るとこんなに危ない状況なのか」と自分が居心地悪いような気がするなら、尚更だ。

人に頼るのが苦手というのもあるかもしれない。
そもそも、頼り方がわからない。出来て現状報告や、何かが進展したとしてその報告を入れるくらいだ。
その返事は「おう、頑張れ。また何があれば教えて」くらいでいいと、心底思う。

便りがないのは良い便りだなんて、本当によく言ったものだと思う。日々が無事に、変わりなく、何かを変える必要もなくいられたら私だって現状報告や今後の方針を人に話すなんてしない。
報告と今後の方針を話しただけでも同情されたり心配されたり、後日「あれはどうなったの?」と声をかけてくれたり、人それぞれではあるが気に掛けてくれる。気に掛けてくれるのは有り難いことだとも思う。
でも、個人的に、同情はされたくない。

あることを人に打ち明けたとき「あなたと比べて私は恵まれていてるのね。あなたは可哀想」というリアクションをされた事がある。ただただ「可哀想」と消費された。形だけの「力になるよ」とか、そういうポーズもなく。とても不愉快だった。
私が人を見る目がなかったのも悪いが、同情だけひたすらされるくらいなら、話さなければよかったと思う。こちらとしては、みじめになるだけだからだ。
なんの生産性もないし、心外だとすら思う。
だれかの境遇を「可哀想」と消費するのは、本人の見えないところでやって欲しい。

そういうこともあって、私はなるべく人に話しても「でも大丈夫」と最後に笑う癖がついた。
「今こんな状況で、苦しいです」とは言ったものの、それを聞いた人の反応のケアに回らなくてはと思ってしまうのは自分の悪癖だと思う。
本当のところはぜんぜん大丈夫ではないし、可哀想だと同情だけされたことの方が傷ついていて「あんたに話さなきゃ良かったよ」と言い捨てたくなる気持ちもあるのに。

そんなわけで、私は少し気持ちを人に話すのが苦手だ。
心の風船のようなものは、どんどん膨らんでいっている自覚はある。ガス抜きをしなくちゃ、とも思う。
文章でならある程度気持ちを吐き出すことが出来るので、noteにはどんどん残そうと思う。

どうせ読んでいて退屈だったり、あまりに読むに堪えない内容なら飛ばし読みをしたりするだろう。
最後まで読むのは酔狂な活字中毒者か、他人と自分の境遇が似ている気がして読み進めているような人か、それとも私のことを知りたくて読み進めている奇特でありがたい存在のどれかだろうとたかを括っているので、私はここでは結構な長文を書くと思う。

さて。表題の「もし、いなくなりたいと思ったら」というのは、私みたいな強がりの豆腐メンタルの人間にならわかる感情であると思う。
「自分のことなんて誰も気にしていない世界へ行きたい」
「自分のことを誰も知らない場所へ行きたい」
これが「いなくなりたい」の平和的な言語化だと思っている。別に死にたいわけでもない。そんな気力も勇気もない人間の衝動なんて、この程度でしかない。

気に掛けてくれる人がいないのは寂しいことだが「でも私は大丈夫だよ」と自分に嘘をつかなくて済む。
私のことを知らない人しかいないのなら「元気がないけど何かあった?大丈夫?」と訊かれることもないし、うっかり私が「いま実はこんな状況で」なんて言わなくて済む。
根本的な悩みの解決にはならないけれど、自分のことで一杯一杯なのに他人に気を遣うのは消耗する…という観点では理に適った衝動だと思う。自分がなんとかするしかないと、覚悟が決まるような感じがするのだ。

「ここではないどこか」について、ひとつ思いついたので書き残しておくことにする。
私は本が好きで、行き詰まるとよく本を読む。本を読めないくらい気力が落ち込んでいるときには、ツイッターをよく見ている。
物語に出てくる地名、特に国内の、行ったことのない場所。どんな場所だろうかと焦がれたことはあるだろうか。
ツイッターのほうが、わかりやすいかもしれない。見知らぬ人が、他県に住んでいて生活を営んでいる。会ったことはないし、会うつもりもない。まるで物語の人物のように、存在だけは知っている。
見知らぬ人が素敵な場所へ出かけたツイートなんかを見て、行ってみたいなと思ったことはないだろうか。
行ったことはない県や街や駅や神社や、とにかくその場所の名前だけは知っているような場所があればいい。
日帰りで行けるなら更に良い。

誰とも関わりたくない、どこに行けば良いのかわからない。でもどこかに行って深呼吸をしないと、息が詰まって苦しい。ここではないどこか、どこかへ行きたい。
首の皮一枚だけ現実と繋がっている、死んだふりのような旅なら目的地さえ決まれば充分なのだ。たぶん。
勿論、ツイッターで呟いている誰かの住んでる県に行くことがあってもその人には言わないし、会う気もない。
小説に出てきた場所を探し歩くような、聖地巡礼なんてこともしない。小説で見た地名の駅で降りたら、もうあとは自由行動の方がきっと気楽だ。

ただ、風景を見て適当にごはんを食べて、お店があれば買い物をして、知らない土地の空気を胸いっぱい吸い込んで、満足したら家へ帰る。
だいたいの目的地を定めて、着いた後は行き当たりばったりの旅。そういう日帰り旅行をしてみたいと思う。

「いなくなりたい」「ここではないどこかへ行きたい(でもどこへ?)」の最適解に思えてならない。一種の放浪だもの。

知らない場所の知らない空気を存分に味わったら「なんだ、世界はこんなに私に無頓着じゃないか」と安心して帰ってくることが出来るだろうと思う。

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