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2:33 a.m. タクシーの中で

終電後、都心から少し離れた家に向かうタクシーから見える景色は、どうしてこうも似通っているのだろう。ずっと眺めていると、昔住んでいた場所に帰っていきそうな気がする。 

大学生みたいにはしゃいだ、同い年の友人たちとの宅飲みの帰り道。記憶をなくしていない程度に酔ってぼんやりしていると、帰る方向が別の友達が手際よくタクシーをつかまえて、先に乗せてくれる。本当に良い友達をもったな、と思う。窓の外の笑顔に手を振って、行き先を告げる。返事をしてくれた運転手さんの声が明るく、良い人そうなのに少しほっとして、荷物を脇に置いて後部座席に沈み込む。 

薄暗い車内の中で、目の前には淡く光るモニターがあって、2:33という数字が画面いっぱいに映し出されている。普段は最近普及した動画広告が流れているんだろうけど、深夜だからなのか、黙々と時を刻んでいるだけだった。 

「なかなかタクシーつかまらなかったでしょう」 

ふと、運転席から声がかかる。 

「そうですね、でも友達が拾ってくれて」 

「最近はね、外国人のお客さんも多くって、タクシーが足りなくなってて。まあ、日本語が通じなくて困るって、乗せたがらない人もいるんだけど」 

「観光客増えてますもんね。オリンピックとかどうなるんでしょうね」 

「ほんとに、大渋滞になるんじゃないかなあ。大企業は会社が休みになるっていうけど、なかなかそうもいかないよね」 

「ほんと、あと1年なんて信じられないですね」 

自分で答えて少し驚く。あと1年?オリンピックが東京に決まった頃、何をしていたんだっけ?少なくとも、2020年に自分がどうなっているかなんて、ぜんぜんわからなかった。 

じゃあいまはわかるのかというと、そうでもないなと思った。その日、久々に、仕事でうっかり「じゃない」ミスをした。直接的な原因は自分にあるとしか言えないけれど、間接的な原因は、日々の仕事の中にひっそりと澱のように溜まっていたことがわかって、頭を抱えた。電話を切ったあと、誰もいないオフィスで涙が溢れたのに自分でも驚いた。純粋に「仕事だけ」が原因で泣いたのは初めてかもしれない。泣いても何も解決しない。誰かに詰められたわけでも、悲しかったわけでも、悔しかったわけですらない。文字どおり、溜まっていたものが機械的に溢れただけだった。周りに人がいなかったことに安心した。 

もう決めなければいけないんだろう。せっかく予約してくれたお店に行けなかった、わたしを含む何人かを、二次会まで待っていてくれた友人たちとの会話を思い出す。仕事でも家庭でも、みんなそれぞれの事情を抱えているけれど、同年代の悩みはどれもどこか共感できて、嬉しかった。 

いつのまにか見慣れた街並みになっていて、ここでいいです、と道の端に止めてもらう。降りるときに視線の端で捉えた時計は、午前3時を過ぎていた。 

住宅街にある家までの数分の道を、マフラーに顔を埋めて、聞こえないくらい小さく歌を口ずさみながら歩く。社会人になって3,4年目の、いちばん長い時間働いていた頃の金曜日、一駅先に住んでいた同期と終電で落ち合って飲んで、こんなふうに歩いて帰った。そのときからだいぶ大人になったつもりでいたけれど、大事なものはいまも、結局のところ変わっていなかった。それに気づけただけ、良かったのだと思った。

#エッセイ
#日記

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