透明(のある)世界

    すべてが嘘でありますように。七夕の短冊にそう書いた。短冊は願い事を書くためのものなんだよ。クラスメイトのミサキはそう言って、私の書いた願い事を半分にちぎって、それをまた半分にちぎって、それを重ねて半分にちぎって、もう1回くらいちぎったところでぱらぱらとごみ箱の中に捨てた。綺麗に舞い落ちる、願いだったはずの紙切れは、私の心のどこかにまだ存在していてほしかった神様みたいだった。私が見捨てたわけでも私に見捨てられたわけでもどちらでもなくて、ただのクラスメイトに破かれて捨てられていった神様は、私を救うことができなかった。ミサキの短冊には、将来幸せになれますように。と書いてあった。私はその紙切れを破いたり捨てたり叱ったりする気にはならなかった。ミサキの考える将来がいつで、幸せが何なのか。興味はないけど、少し知りたかった。だけどやっぱり興味がないから、ミサキには何も言わなかった。

嘘の反対は本当なのだろうか。そうかもしれないが、本当の反対は嘘ではないと思う。本当の反対は、本当ではないことだ。でもそれは嘘だとは断定できない。本当ではないだけで、本当だと信じていること。疑う余地もなかったこと。クリスマスプレゼントやクリスマスケーキ、お年玉や鏡餅。それが誰かにとっての本当で、また違う誰かにとっての嘘だったなら、前者は、彼らにとっての本当は本当ではないことだったのだと、いつか気がつくのかもしれない。

    すべてが嘘でありますように。七夕の短冊にそう書いたのは、私が世界を愛しすぎてしまっていたからだった。でもきっと未来の私は、短冊には何も書かないのだろう。笹に短冊を飾る。たくさん飾るけど、そのどれも白紙のまま。全部嘘になんてならない。だけどこの世のすべてが本当ではない。本当ではないことは時々私の心を救ってくれる。人間に破り捨てられた綺麗な神様も、赤くて大きくて片方しかなくて誰にも相手にされない、穴のあいた古びた靴下も、私は愛してあげたいと思う。こんなクソみたいな世界の端っこで、それでも、嘘みたいだね。って笑い合えるそんな透明と、私は息を重ねていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?