空き家銃砲店 第十五話 <着物>

昔、着物で生活していたころ、家でお葬式をするものだった。家には普段よりたくさんの人が出はいりする。準備として、たくさんの客用座布団をだし、人が座る場所を開ける必要が出てくる。

そうするとどうななるか、場所をふさぐ家具をどかす。人が入ってこない場所に一時避難させるのだ。もちろん、必要な家具であれば元の場所に戻るが、持ち主を失った家具はそのままになってしまう。

その古い箪笥も二階の東南の廊下にあった。

私が二十歳になるかならずの頃の夏、祖母を探したら、業者さんと一緒にこの箪笥の前にいて、「お金がなくなったから売ろうと思って」と口にした。その1、2年後、本当にすっからかんになったこともあって、祖母は私たちと暮らすことになるのだが、この時はまだそれを知らない。

引き出しを開けるとびっちり着物が入っている。箪笥は二棹、揃い(そろい)だった。総桐で鉄の金具がいい具合にさびている。丸い鍵かくしが好みだったので、誰のものかと聞くと、「おじいさんのものだよ」

「売る」「だめ」押し問答の結果、一つ残してもらった。余談だか、このときの業者さんは古物商ではなく、古物商にコネがあった建築業者さんだった。バブルがはじけた後、銀行さんに数千万の一括返済を求められ大変だったという。

話しを箪笥にもどそう。祖母の死後、私はこの箪笥を思い出し、気に入った着物数枚を抱えて階段をおりようとしていた。時間は午後3時半過ぎ。窓もなく、電気を止めた家の階段は薄暗い、慎重に一歩、二歩、三歩目を踏み出そうとした時、いきなり足が沈んだ。

「きゃあ、ごめんなさい」

なぜがこう言っていた。階段を踏み抜いたかととっさに右手で手すりを抑えたが、床は腐っておらず、足は階段の上にある。

なぜ足が沈んだように思ったのか?

そう言えば母は「あの家に3時過ぎて行ってはいけない。そういう時間だから。」と言っていた。

誰もいないのになぜ私は「ごめんなさい」と言ったのだろうか。その後、曽祖父の箪笥を開けることはあったが、「もらっていくね」と声をかけるようになった。



おまけ

何かと物がなくなる家だった。祖父の死後、母が唯一欲しかったというガラスの底に沈んだ緑の花のペーパーウエイト、銃の模型はいつの間に行方不明になっていた。

家の鍵や車のカギ、ポケットに入りやすいものはまだ分かるが、母の言う<緑の、一番高かった祖母の着物>は用があって箪笥から出したものの戻ってこなかった。祖母はすべて小さかった自分サイズに裁ち切ってしまうから、着物としては着られないが、羽織や帯になおせば私も使うことができる。祖母は着物の趣味が良かったので見てみたかった。

平成8年、祖母のお葬式の時には脱いだばかりの母の着物一式が手品のようになくなった。まだ葬祭センターがなく、家族葬の時代でもなく、喪主の妻の母は和服だった。祖母が作ってくれたもので、着物を汚すと嫌だからとお寺さんの部屋を借りて着替え、「後を頼むわ。たたんで持ってきて」。洗いものをしていた私に言いに来て、すぐ行ったのだが部屋には長襦袢はおろか、紐一本なかったのである。着物でお寺に来た証拠に、玄関には草履だけがぽつんと残されていた。

さかのぼると昭和の40年代の母の結婚式にはご祝儀が、平成の10年ごろのお盆の最中には泥棒が入ったものである。ちなみに昭和14、15年あたりに結婚した父方祖母は、新婚旅行の際、祖母の父から買ってもらったばかりの時計とダイヤの指輪が枕元からなくなったという。この頃は「長男総取り」の時代なので、祖母の時計とダイヤは遺産の前渡しでもあった。

ものがなくなる遺伝子は受け継がれ、特に筆箱は母、私、娘と三代に渡って行方不明になっている。


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