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ため息俳句 菜園の蜜柑


極楽やお蜜柑炬燵こたつちゃんちゃんこ


またそういう季節が巡ってきた。
今年も残すところ一か月、なんと老いの日々は足早であることか。刻々とその日は、近づいているのだ。
今度の旅でも、阿弥陀様には念を入れてお願いしてきた。どうか浄土へお導きをと。
でも、できることなら残り少ないこの世の日々も、なるべく極楽状態でありますようとも。なんという厚かましさであろうかと反省しつつ、ついついそんなことで。

ところでこの蜜柑、我が自給菜園で採れた。まだこの木は一丁前ではないらしく、どうしてかはわからないが隔年でしか収穫できない。今年は、収穫の年である。
味についての評価は二分されていて、「おいしい」と「酸っぱい」に分かれている。
自分はこの蜜柑に日ごろから手塩にかけて?肩入れしているので、いうまでもなく「おいしい」派である。甘味はほどほど以下かもしれないが、「蜜柑本来の味わいがすこぶるよろしい」と。反対に妻は「酸っぱくて食べられない」とほざきやがるのだ。しかし「おいしい」組には強い味方がいて娘の連れ合いが、「お父さん、こんなに自然においしい蜜柑はスーパーには売っていません」と大いに支持してくれているのだ。しかし、娘は「ちょっと、味覚音痴だからね、酸っぱさに鈍感なのよ」とか言って亭主にも自分にも冷ややかである。
テレビではグルメ番組が腐るほどあるが、その食レポたるや全くの紋切り型で、一口食べるや、先ず食感を「やわらか・しっとり・もちもち・とろとろ」などと言う。続いて肝心の味といえば、何を食べても先ず「あまーい」とのけぞったり、嫌な目つきでうっとりとのたまう。野菜であろうと、魚介であろうと、肉であろうと、お構いなくだ。勿論しょっぱいも辛いも苦いも言うことは言うが、何より「柔らか、あまーい」である。
なんと、単純な味覚しか感じられないことよ、それでいっぱしの美食家面をする、実は幼稚なのだ。大体自分は美食家というのが嫌いなのだ。
土から育つ大根には大根の、トマトにはトマトに、そうして蜜柑には蜜柑の固有の味わいがあるのであって、まずそれを第一にあげるべきなのであると・・・。

話がまた大袈裟になった。悪い癖だ。ともあれ、かようの如く心に思うのであるが、そこまではっきりとは、妻と娘には言ってはいない。口にすれば、後が面倒なことになるゆえである。

しわしわに顔しかめつつ蜜柑好き