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盲学校育ちの私が「フツーの会社員」になりたかった理由

私は生まれつきの目の病気(先天性白内障)で視力が弱く、小2から高校卒業まで「盲学校」で過ごした。

「盲学校」というと目が見えない子が行くところ、というイメージが強いかもしれないが、昭和50年代の盲学校は「全盲」の子は1割程度で、視力が弱い「弱視」の子が9割を占めていた。当時、身体的ハンディのある子どもは特殊教育を受けたほうがよいという国の大号令のもと、半ば強制的に盲学校入りさせられる子が多い中、私は自ら希望して転校してきた数少ない子どもだった。

地域の普通の小学校に入学した私は、「見えないからできない!」を連発して担任の先生を困らせ、盲学校を紹介されるに至ったのだけれど、そのとき、こう思ったのだ。

「メガネをかけている子が他にもいる学校なら、からかわれなくて済むかもしれない」

昭和50年代の地方の小学校、小1の30人クラスで、メガネをかけているのは私だけだった。しかも特注の分厚い凸レンズのメガネときている。物珍しさと子ども特有の好奇心が相まって、クラスメイトにからかわれたり、メガネ貸してと言われて貸したら「ええー?! ぜんぜん見えない!! こんなんでよく見えるね!」と驚かれたりしていた。「いじめ」というほど深刻なものではなく、我慢できないほどではなかったけれど、やっぱり気持ちのいいものではなかった。

盲学校に行けば、他にもメガネの子がいる。それが私の転校の理由だった。

かくして私は高校卒業までの11年間を盲学校という極めて特殊な環境で過ごすことになった。どんな環境かというと・・・

・一学年2~10名程度の超少人数教育。当然、クラス替えなどなく、転校生が来なければ、ずーっと同じ顔ぶれ。しかも、ほとんどの生徒が高等部卒業後に鍼灸師(はり・灸・あんま・マッサージ・指圧を行う職業)になるために同じ盲学校内の「専攻科理療科」に進学する。ゆえに、小1から在籍している人はじつに15年間、同じメンバー、同じ環境で過ごすことになる。

・授業内容は普通の小中高と同じだが、拡大読書機やルーペなどの補装具は自由に使うことができた。また「養護訓練」「点字」などの時間があった。(点字は結局指で読めるようにはならなかった・・・)

・生活の場は学校に併設された「寄宿舎」での集団生活。厳しい規則があり、起床・就寝・食事・学習の時間がすべてきっちり決められていて、お風呂は週3回、掃除や洗濯、整理整頓も自分たちで行う形だった。家に帰るのは土日と長期休暇の時のみ。

・そんなこんなで、地元の友達は皆無。

そんな当時の盲学校には、「自分たちは普通ではない。障がい者なんだ。目が悪いから鍼灸師になるしか道はないんだ。」という思想が静かに流れていた。

鍼灸師は人の役に立つ素晴らしい仕事だ。だからそれ自体が悪いわけではもちろんない。ただ、私はその選択肢のなさが気になっていた。目が悪くても、他の道もあるのではいか、と。

そんな折り、高等部在籍中に出会った担任のY先生、体育のM先生、養護教員のT先生から大きな影響を受けた。

担任のY先生と、体育のM先生は、盲学校で盲教育に長年携わっている専任の先生ではなく、普通の高校に在籍していたごくごくフツーの高校教師で、人事異動で盲学校にやってきた「よそ者」だった。彼らは口を揃えてこう言った。

「君たちはちょっと目が悪いだけで、普通だ。鍼灸師以外の道も当然ある。」

その言葉に背中を押され、クラスメイトが全員鍼灸師を目指す中、私はひとり、別の道を歩むことを決めた。

とはいえ、なにになりたいか、なにをしたいかは、決まっていなかった。高卒でいきなり就職、しかも盲学校卒では苦戦を強いられることは目に見えていたので、専門学校に行くか、大学に行くか・・・。

ふと、養護教員のT先生のことが頭をよぎった。T先生はとても物腰柔らかな方で、視覚障がいを持つ私たちにも、知的障がいを持つ生徒や、意思疎通が難しい重複障がいの生徒にも、人として対等に平等に接してくださっていた。T先生のようになりたい、そんな思いから、T先生の出身校である「日本福祉大学」を受験することに決めた。

一浪して、やっとの思いで入学した「にっぷく」は、社会福祉を学ぶために必要な「冷たい頭と熱い胸」(冷静な判断力と熱い情熱)を持つ同志がたくさん在籍していた。盲学校卒で分厚い凸レンズのメガネをかけている私を特別扱いせず、フツーに受け入れてくれたし、大半の学生が目が悪いことに理解を示してくれた。私はここで、目が悪い自分でも人の役に立つ仕事がしたいと思い、福祉の現場で働く道へ進もうと、単位をとり、福祉施設での現場実習に臨んだ。

現場実習は、児童養護施設と、身体障害者療養施設の2カ所で行った。しかしどちらもまったくダメダメでお話にならないレベルだった。自分から入所者の方に働きかけることができず、どうしても受け身になってしまうのだ。

なぜ、積極的に関わることができなかったのか。その原因は盲学校の寄宿舎生活にあったような気がする。厳しい規則があり、常に他人の目がある中での暮らしに、「できればそっとしておいてほしい」「自分のテリトリーに踏み込まないでほしい」という思いが強かった。実習先の入所者の方も、同じ気持ちなのではないか、勝手にそう思い込み、積極的に関わることができなくなってしまっていたのだ。

加えて、「目が悪い」ことも裏目に出ていた。当然と言えば当然なのだが、福祉の現場で働くということは、入所者の方の命を預かる仕事なのだ。実習中に私の目が行き届かなくて入所者の方を危ない目に遭わせてしまうことは幸いなかったけれど、もしものときに、視覚障がいを持つ自分が人の命を守れるのか、すっかり自信がなくなってしまった。

自分が福祉の現場で働くのは難しい。計4週間の実習の結果が、それを物語っていた。

じゃあ、私はいったいどんな仕事がしたいのか、できるのか。そもそも、やりたいことはなんだったのか。自問自答の末、私はひとつの結論にたどり着いた。

11年間、盲学校という特殊な環境で育ち、大学時代の4年間は文字通り「健常者に混じって」学生生活を送っていた私の「ありたい姿」は・・・

フツーの会社で健常者と一緒に働くこと。

大学の講義で耳にタコができるほど聞いていた「ノーマライゼーション(障がい者と健常者が共に生きる社会)」を、自ら実現するために、一般企業に就職したい、そう思うようになったのだ。

私が会社員になることで得られる理解など、たかが知れている。でも私と関わってくださる方には「弱視者」の存在を知ってもらうことができるだろうし、興味や理解を示してくださる方もいるかもしれない。

こうして盲学校育ちの私は「フツーの会社員」を選んだのだった。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

あれから28年、私は会社員を続けている。社会は大きく変わり、耳タコだった「ノーマライゼーション」という言葉を古くさいと感じるほど、いろいろなことが前に進んだように思う。盲学校育ちの私が「会社員」という仕事を選んだことで、この前進に1ミリでも貢献できたのなら、嬉しい限りである。


#この仕事を選んだわけ #障がい者 #弱視 #会社員

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