見出し画像

「体の声」「脳の声」「自分の意思」を聞き分ける

これの続きです。

「年間100枚描く」を具体的な目標として、「稼働率(生産性)を上げる」ためにはどうしたらよいかを考えながら制作を続けて半年が経ちました。
ちなみに現在、公開できているもので二次創作を抜くと34枚です。やべ〜

最近気づいて実践していることをまとめてみます。
ほぼ自分用なのでなんのために外向けに文章にするのかよくわかりませんが、部分的にでも共感できるところがあれば参考にしていただければと…


「死にたい」の根っこは「自分の中の矛盾」

気がついたら口癖のように頭の中で「死にて〜」と呟いている。
人と喋ってる時も無意識に始まってるし、なんなら口に出そうになる。

「死にたい」ってなんかメンヘラ各位の共通用語のようで、その中身が人によって全然違うよなと最近よく思います。

自分の場合、「死にて〜」の前には大体「なんもわかんね〜」がある。

寝たいと思ってるし、眠いのに、寝れない。
お腹空いてるのに食欲がない。
出かけてやりたいことがあるのに、体が重すぎて動けない。
なんなんだよ…どうしたらいいんだよ…という。

まぁ大体は鬱のせいなんで、できないことを無理にやろうとしない方が治療という面では適切なんでしょうが、
ひたすら鬱に任せて布団でグッタリしてても、なんも嬉しくないというか、虚無…というか、ただ生存を維持してるだけってなんの意味があんの…みたいな、余計落ち込むっていうか…

鬱病ってこういう「詰み状態」になりがちな病気なんじゃないだろうか。
自分の中に常に矛盾があって、それをどう整理していったらいいかわからないというか。

少し前、どうしても制作を頑張りたくて無茶をしたら睡眠と食事が大変に荒れて、精神科の主治医にうっすら叱られた、ということがあったんですが、
自分からしたら目標とか稼働率とかを抜きにしても「絵を描けない生活」ってなんの価値も感じられないので、病気の治療だけに最適化した考え方をしても幸福にはなれないなと感じたんですよね。
まぁだからといって寝れないし食べられないのも普通にしんどいので、
ようはバランスを取っていく、その都度「今はこっちを優先すべきだな」という「判断」をしていく必要があるわけなんですが、その判断基準というか、思考法をどうしようかなと考えた時に、
編み出したのが以下の方法です。


「体の声」について

「体の声」は、内臓器官や筋肉など、体の部位の機能によって起こされている反応のことです。
眠気とか、空腹感とか、足の疲労感とか、頭痛とか、だるさとか。

まずはそれらを、「自分が思っていること」と切り分けてみる。
「体は飯食いたいっつってるけど、今俺はどうしても食う気になれないんだよな…」みたいな感じ。

体の各器官にはそれぞれ役割があるわけです。基本的には生命を維持して、健康に保つための機能が備わっていて、
「ご飯食べてー!」「眠ってー!」「休んでー!」とか、私に向けて声を発してくれているわけです。

こういうイメージを持つと、「そうだな…体が言ってるんだし適当にでもなんか食うか…」とか、「体の言うことも最もだが、俺にも事情があるんだ…すまんな…」みたいな、なんとなく気持ちの落とし所がすっきりする気がする。

そして自分が切羽詰まりまくっていると、この「体の声」がだんだん聞こえなくなっていくのも注意点ですね。
なんか最近ヤバいな…と思ったら、一回静かな場所で一人で落ち着いてみて、自分の体と”対話する”と、「うわ確かに最近全然寝てねぇじゃんそりゃ調子悪いわ…」みたいなシンプルなことに気付けたりする。


「脳の声」について

脳というと一見「自分の思考」とイコールなように感じるんですが、
意外とこいつも私の気持ちと関係なく好き勝手言ってやがるな、ということに最近気づきました。

脳みそも体の内臓器官のひとつなわけですが、
こいつの役割は主に「危機管理」なんじゃないか、という仮説が私の中では立っています。
(脳科学とか一切調べずに言ってるので自分の中の勝手なイメージですが)

メンタルヘルスにおいてデカい問題として「トラウマ」というものがありますが、これは脳によって引き起こされているもので、
例えば大きな音がすると激しく緊張する、とかは、過去に(幼少期とかに)大きな音がした後に大抵何か危機を感じる出来事があった(親に乱暴されたとか)から、以後大きな音がすると無条件に身構えるようになった、
正確には「脳みそが『身構えろ!』という命令を自分に向けて出している」という”危機管理能力”あるいは”防衛機能”と言えるんじゃないか。

そのほかにも、「期日までにこれをやっとかないとあとあと面倒なことになるぞ」とかも危機管理の一種かなと。
諸々いろんなものに対して「やばいやばいやばい!!!」って追い立ててくるのは基本「脳の声」ですね。

「脳の声を聞く」のはちょっと難しいことなんですが、
そうやって頭の中に浮かんでくる思考を、ちょっと引いた目線で見るというか、完全に従わずに時々「本当に今ってそんなにヤバい状況か…?」という疑いの態度を持つ、という感じです。

さらに言うと、「発達障害」も「脳の癖」と言えますね。
例えばADHD(注意欠如、多動性)だったら、「あれ気になる!あっあれ!あれは!?」って次々目移りする子供みたいなもんです。
「うちの脳みそはそういう性格なんだな…」みたいな認識を持っておくと、「はいはいそれはあとでね」って宥めたり、「たまには付き合ってやるか…」みたいなイメージを持てて、振り回されることが少ないかなと。


じゃあ「自分」はどこにいるのか

この二つは要するに、「自分の中で感じること、考えることは、全てを自分が言っているわけではない」「つまり自分は矛盾していない!」という、
まぁ一種の責任逃れのような手法です。
だから自分の中の整理だけに使って、他人に向かって「これは俺の脳が言ってるから仕方ないんだよ!」とかは言わない方がいいです。

それじゃあ最後に残る「自分」とはどの部分なのか。
すなわち「自分の責任」として持つべき範囲はどこなのか。

それは「体や脳の声を聞いた上で判断した、”行動の選択”」だと私は考えます。
つまり自分の外部の世界に対して出力すること。


体や脳ってのは自分の内側、主観的なもののことしか知りません。
そして各の機能に従って、外部だったり、他の機能に対して配慮せず、好き勝手言います。それが彼らの機能だから仕方ないのです。

体はお腹空いたとか眠いとかどんなタイミングでも言うけど、その場に食事があるかとか、寝れる場所があるかは知りません。
脳は外の環境が変わって、言っていることがトラウマとして自分を苦しめていることを認識していません。
さらには体と脳の意見が喧嘩することもあります。
「眠いんだから寝てよ!」「ダメ!やることあるんだから寝ちゃダメ!」みたいな。

「体の声」「脳の声」そして「外部の環境」それぞれの意見や事情を聞いて、諸々考慮して、じゃあ今はこうしよう、と判断しているのが「自分」。

そしてその合間に、それぞれが言ってることもわかるけど、私は本当はこうしたいんだけど…という「意思」を挟むのも、自分。
私の場合は「絵を描きたい」だとか。


と、いうふうに整理していったら、最近「死にて〜」から抜け出すのがちょっと早くなりました。
悶々とする時間が減った分、創作に充てられる時間もちょっとずつ増えている気がします。

みなさんはどうでしょう。そもそも体と脳と外部が喧嘩するなんてことほとんどないのかな。
自分のいる環境がムチャクチャだったらまた別だけど、そうじゃないのに何がこんなに上手くいかないんだろう…と思ったらぜひ試してみてね。


#振り返りnote #メンタルヘルスケア

この記事が参加している募集

最近の学び

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?