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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#49

10 四境戦争(5)

 山口ではイギリス公使から、自分が訪問したいところだが、提督を派遣するので藩公や世子様と対面をはたしたいという話が、取り次がれていた。
 歓迎の準備とはいっても、大っぴらにはできない事情もある。

 また、うれしいとはっきりとは言いづらいが、この時密航仲間の遠藤謹助も帰国していた。病による中途での帰国だった。
「謹助、中途での帰国残念だったの。じゃがわしら半年ぐらいの成果でも接待掛やっとるんじゃ。おぬしの事頼りにしてるぞ」
「聞多さんと、キング提督の歓迎のお役目するの、楽しみですよ」
「俊輔とはもう会ったのか」
「まだ、下関には着いたばかりでこれからです」
「今度三人で飲みに行くか」
「いいですね」
 謹助はようやく笑っていた。残っているメンバーの近況も聞いてみた。
「庸三や弥吉は元気か。頑張っている話は聞いたが。造船と鉄道だったかの」
「金がないなりに、知恵を絞ってやってますよ。薩摩藩も留学生を送っているので、そちらとも親しくなってます」
「一足早い薩長連合じゃの」
「今度はイギリスとも手を結ぶということですね」
「そうじゃ、個人的にはやり取りできても長州としては難しいからの。世子様との対面は重要じゃ」

 準備も整ったころ、重大なことが起きた。帝が崩御されたのだった。今上帝は長州をお嫌いであったので、朝廷との間も難しくなっていた。新しい帝が立たれれると、変わることも多いだろうという予感がしていた。そのためもあってか、キング提督との晩餐はそのまま行われることになった。

 提督の三田尻到着の報を受けて、まず世子様と木戸、広沢といった側近が三田尻に赴いた。その頃遠藤謹助が提督の側近と打ち合わせを行っていた。藩公にもお目にかかりたいという話が出たので、すぐにお目見えできるようように取り計らう約束をした。日数も限られていることなので、すぐに三田尻から山口に使者がたてられた。

 まず歓迎の宴を行った。できる限りの洋食と、外国人の口に合いそうなものを集めた。これは、喜んでもらえたようでよかった。
 藩主敬親公や世子様には、この宴にお出ましいただいた。聞多と謹助は通訳と接待を取り計らった。
 イギリス側にも話をして、藩公や世子様の前ではなるべく儀礼的な話をしていただくように取り計らうようにした。具体的な政治向きのことは、木戸、広沢達とまた別の場を設けた。

 その温度差が提督側に伝わったかもしれないが、できる精一杯のことだった。本来ならば地元の名士や住民からも、歓迎を伝えるべきだったのかもしれないが、攘夷の意識が消え切らない以上、危険は冒せなかった。

 聞多と遠藤は提督の船で兵庫まで行くことになった。京・大坂の事情を探りに行くためだ。大坂、京に長州藩士が入ることはまだ認められておらず、薩摩藩邸に入っている品川に連絡を取り、薩摩の吉井幸輔を案内役に送ってもらい、京都に入ることが出来た。

 聞多達が薩摩の斡旋で宿泊所とされた宿につくと、早速品川弥二郎がやってきた。

「戦の勝利、めでたい事です」
「公儀との止戦の交渉一筋縄では行かなかったが、あちらの軍はとりあえず退いた。これで、次の段階に進められるようじゃ」
「ということは、いよいよですか」
「それで、京の様子を見てこいということじゃ。薩摩の動きはどうなっとる」
「長州の復権に動いているのですが、公儀の動きは芳しく無いようです。兵庫の開港問題も横たわってますからね」
「なるほどな。大久保さんとか西郷さんには会えるじゃろうか」
「おふたりとも在京です。大丈夫です」
 聞多は謹助がただ聞き役に回っていることに気がついた。
「おう、そうじゃ。弥二郎は謹助を知っとるか。戦の前にイギリスから帰ってきた、わしの密航の同士じゃ」
「遠藤謹助です。下関の外国応接接待掛をしております」
「弥二郎は、薩摩藩邸に入って薩摩と長州のつなぎ役をしちょる」
「品川弥二郎です。以後お見知りおきを」
「なに、堅苦しいのは無しじゃ。ゆるりとやろうな」
 一通り情報交換が終わると、弥二郎は帰っていった。

「謹助はあまりこういうお役目には興味ないのか」
 ふと気になったことをきいた。
「あまり、興味が持てていないですね。僕には英学塾をやるくらいがあっている気がして、お願いしているのですが。なんとも」
「まぁこういう事態じゃ。知識のあるものは生かして、やってくれんことにはすすまんからの」
「そうですね。やれることやっていきます」
「そうじゃ。明日からはついてきてくれればええ」

 品川の言葉通り、大久保、西郷と言った薩摩の幹部と会うことができた。特に西郷とは時間をかけて話すことができた。

「お時間をいただきありがとうございます」
 まずは礼から始めた。
「京へのご足労に比べればなんともなか」
「わが長州の朝廷への復権の活動、ありがたいことと思っております」
「なかなかうまくいかんが、公儀からの邪魔が入れば最終手段も考えております」
 最終手段とは武力倒幕。待ち望んでいた言葉だった。
「そのことについては、わが長州も軍を動かす準備整えております。なれば諸侯会議などないものとして、一日でも早く大政を返上させ、帝を中心とした世を作るべく、ともに働いていきたいと考えております」
 そう、佐幕側の諸侯会議に論が向くと、将軍の力は温存されたままになる。それは我らの望む世にはならないということだ。
「薩摩も同意見である。ご安心いただきたい」
「合力の確認出来て、確かな便りを国元に届けられます」

 大久保とも同じような話ができて、武力による討幕の時が近づいているのがわかった。しばらく滞在して、帰国のため大阪に向かうと緊急の話として弥二郎が黒田を伴ってやってきた。

「間に合ってよかった」
 弥二郎はものすごく上機嫌だった。
「何が起きたのじゃ」
「公儀が長州の征討軍の解兵を決定した。これで本当に戦は終わりだ」
「そりゃ本当か」
「そのことをつづった文だ。木戸さんに渡してください」
「了解した」
「それじゃ、急いで帰らんといけんの」
「西郷さが薩摩に帰りもす。その船にお乗りください」
 黒田が言った。
「それは有り難い。お言葉に甘えさせていただく」
 西郷とともに船に乗り、三田尻でおろしてもらった。

 山口に帰り、薩摩は長州の復権のことがうまくいかない場合は、公儀を見限り断固とした策に出るという話をした。そして京で受けた情報として、三条公達五卿の京への復帰も間近いことも説明した。そうして、この役目が終わったところで、また下関の応接御用掛に任じられたので、下関に向かった。
 そのころ高杉の病状は悪化の一方だった。慶応3年4月13日夜高杉晋作は永眠した。公儀を倒す動きを本格化させようという時だったのに、と思うと悔しかった。
 ただし聞多にも俊輔にも、立ち止まっている時間はなかった。晋作のやり残したことを、自分たちがやり遂げることが重要だと考えるしかなかった。
 
 そうして同年10月15日には、将軍慶喜が大政を奉還する。



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