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【小説】奔波の先に~井上馨と伊藤博文~#153

26 明治14年の政変(7)

 今度は、東京に参議や卿が揃ったところで、大隈の罷免のため、動くことになった。
 まず、馨が岩倉に会い話をした。その後元老院議官の安場も、大隈の陰謀について語った。岩倉も、大隈の罷免が、止められる状態でないことを、理解したようだった。政府の結束、つまり薩長の間には大隈の存在が、邪魔になっているのは、明らかなことだった。
 
 そして、天皇が巡幸から帰京した10月11日の夜だった。大隈重信と大木喬任を除いた形で、三大臣と参議が集まり、御前会議が開かれた。
 議題は議会開設の時期を示し、憲法の制定を進めること、元老院の改革が大した議論もなく勅裁を得ることができた。
 そして、大隈の罷免が求められた。これには天皇も大隈のこれまでの仕事ぶりから、罷免でなく辞任をさせるように配慮を求めてきた。
 最後に払下げの中止となり、黒田に確認を取って裁可された。

 御前会議が終わると、博文と西郷従道が大隈の元を訪ねた。
「大隈さん、辞職願を出してくれんか」
 博文は単刀直入に言った。大隈は博文に尋ねていた。
「馨は、なにか言ってはいなかったか」
「井上さんは大隈さんに怒っていただけだ。絶交すると言っていた」
「そうであるか」
 博文は、険高く声を出した。
「参議と帝の総意である」
 この言葉を聞くと、反論の余地が無いことを理解した大隈が言った。
「明日の朝には辞職願を提出する。それで異論はなかろう」
 あっけなく、終わっていた。

 12日に、天皇のもとに三大臣と伊藤と西郷が集められ、議会開設について明治23年と定めらた勅諭が出され、開拓使の払下げ中止の旨が伝えられた。そして、大隈の辞職願も受理された。

 翌日からは福沢諭吉の門下生が免官になった。その中には大隈に近い矢野文雄や犬養毅、尾崎行雄、小野梓がいたし、福沢の甥でもある中上川彦次郎も含まれていた。馨は中上川の次の処遇についても、考えることにした。

 この事態に福沢諭吉は、馨と博文に事情の説明を求める手紙を送っていた。
 馨は、議院内閣制にまで、賛同した覚えはない。誤解させるようなことであれば、済まなかったと返答していた。
 これに、福沢はもう新聞の件が、伊藤・井上の間と進められることはないと、理解していた。そこで、用意していた政府公報のための材料を、自分の事業として始めることとした。

「俊輔、憲法調査に専念してみんか」
 少し切って、ニヤッと馨は笑った。
「調査に専念とは」
「ドイツに行って、憲法学の権威から、直に話を聞いてくるんじゃ」
「そんな事できるんか」
「わしに任せろ」
 馨は参議でもうるさ方と見られる、佐々木高行、大木喬任、福岡孝弟に説明をしていた。
「議会開設と憲法制定はいろいろな問題を含んでいるので、伊藤を一年ほどヨーロッパで調査に当たることを認めて欲しい。これは建前じゃ。本当のところは、伊藤はここのところの無理がたたって、神経症を患っておる。不眠だけでなく大酒に浸っているので、これを鎮めるためヨーロッパに送りたいのだ。どうか理解して欲しい」
 これには反論するものは出なかった。こうして、博文の洋行が決まった。

「俊輔、くれぐれも酒の飲み過ぎには注意するんじゃぞ」
「それじゃどこの小姑じゃない舅じゃの。うるさい。聞多の心配性」
「ふっ。少しは、真面目なことも言っておこう。ベルリンの青木にも、テレグラフを送っておいた。ドイツのグナイストやウィーンのシュナイフと言った先生が、木戸さんも話を聞いた憲法の先生じゃ。繋ぎを取ってほしいと言ってある」
「木戸さんも聞いた先生か」
「ウィーンのシュナイフは、公使館の連中も現役で聞いているらしい。頼りにしていいんじゃないか」
「わかった。ありがとう。行ってくる」
「留守宅はわしが面倒を見る。安心しろ」
 馨は、博文を送り出した。

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