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【小説】奔波の先に~井上馨と伊藤博文~#154

27 鹿鳴館(1)

 昨年来手掛けていた、鳥居坂に私邸が完成していた。
「武さんどうじゃろ、基本的に椅子とかテーブルの生活になる。畳の部屋は来客対応の部屋や、待合室にも残しちょるよ。そう、寝所もな」
「あまりにも豪華で、何をどうするかなど、思い及びません」
「使いながら、勝手の良くないところを直していくしか無いじゃろ」
「あぁ、井上さんこちらですか」
 益田孝が馨に話しかけていた。
「武さん、この家は随分益田君に骨折ってもらったんじゃ」
「そうでしかたか。旦那様は注文も多かったのでしょう。ありがとうございます」
「いえ、このような調度品の輸入など、本業にも役立ちますから」
「それにしても、和と洋といいとこ取りの家ですね」
 益田が天井を見上げながら言った。
「それがわしの目論見のようなものじゃ」
 馨は上機嫌だった。この屋敷ならば、外国の賓客も招待できるはずだ。まだ、手をかけたいところはあるが、納得できる水準まで持ってきたのだった。

 世間では議会の開設にも向けて、動きも大きくなってきた。
 大日本国会期成有志会が行われた際に政党を作るべきと唱える一派によって作られた自由党と、国会期成同盟会が合同して、政党としての自由党を作り、板垣退助を総理にして後藤象二郎らが役員として並んでいた。
 一方で下野をした大隈は立憲改進党を作っていた。こちらには大隈とともに下野をした河野や小野が参加していた。イギリス流の自由主義を標榜していたが、政府に対する対峙は自由党とはまた違っていた。
 また、福地源一郎は立憲帝政党をつくり、馨たちの援護をしようとしていた。
 その政党の活動の中で、板垣退助は盛んに遊説を行っていた。そんな矢先の岐阜の富茂登村の中教院での演説のあと、板垣退助は刺客に襲われるという事件が起きた。板垣は急所を外れていて、命に別状はなかった。しかし、政府側の仕業という噂が出たため、緊張が走っていた。
 この話が政府にもたらさられると、天皇も心配されて、お見舞いを送っていた。そして今度は、お礼のため参内するという話も出てきた。

 馨は三条公に面談を申し込んでいた。
「この度の板垣のお礼の参内について、僕は認めたいと考えています。陛下も板垣のことは、お心を痛めておられる。元気な姿をお見せするのは、必要なことかと」
「しかし今では、政府に反対を表する政党の首領であろう。そのようなものの、参代を認めては、陛下に何か直接訴えようとするのではないか、という反対も多いのだが」
「そういう意見があるのは承知しております。しかし、後藤象二郎も共に参るのならば、歯止めにもなりましょう。そして、なにより、陛下にお目にかかることで、元勲としての名誉を賜り、心情も変わるのではないかと思っております」
「たしかに賛成のものからは、同じような意見を聞いた」
「僕には他にも考えがあります。そちらもうまく行けば、ご心配のようなことは、起きないと思っております」
 そう言って、笑ってみせた。
 板垣退助は、後藤象二郎と共に無事参内を果たしていた。

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