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心鏡の湖における「女声の価値観」とは

午前3時33分より、心鏡の湖が執筆します。さて、noteで女声に関する記事をいくつか書いてきましたが、今回は「女声の価値観」について書いていきたいと思います。

マイナーな話になりますが

価値観。それは皆々様が持っている考えや意識です。ここで女声と言われても世間一般ならば困惑するでしょうし、noteにおいても超マイナーな話になるために理解されないことも多々あるでしょう。それでも、女声を出すために励んでいる方や女声に興味のある方に向けて、今回の記事を書くつもりです。

恋人との会話

心鏡の湖における女声。私は「女声をやっている」というよりかは、「親しみやすい恋人と会話をしている」のです。

恋人と会話をするのは至って普通のことではありませんか。ドライブをしているときに隣に恋人がいて、何気ない話から会話が弾む。車間距離を詰められて嫌な気持ちになったら、恋人もそれに同乗してくれる。何が食べたいかと考えているときに提案してくれる。

実際は一人二役をして、独り言をしているわけですが、私にとっては、もうひとりの私が声を介して遊び相手となってくれるのです。そりゃあ、家で声が出せない状況であれば遊べないのですから、さぞイライラするでしょう。ニートであれども外出したくなるし、夜中まで起きて風呂場で録音したくなるわけですね。

もはや習慣付いてしまって、特に志を持つことはほぼありません。そのため、練習するとか成長するといった向上心も抜け落ちています。結果として、「なんか勝手に喋っているから、気付いたら声質が変わり、良くなっていた」という話なんです。

これは私が行っている創作とは価値観が異なります。私の創作の場合は、評価されたい認められたいといった承認欲求を原動力としているため、何も評価が得られなければ創作をする手はあまり動きません。noteの記事作成も同様です。しかし、別に読まれないことを覚悟しても、勝手にnoteの記事を書く手が進むのは、女声をテーマにしているからです。そうでなければ、あまっかを含めて今まで書いてきた自己流ボイストレーニングの記事の説明が付かないんですよね。

独り言の素質

思えば、中学時代に自転車で登下校しているときに、ひとりで独り言をぶつぶつ喋っていて、通りすがりの下級生と目が合ったことがありました。女声は独り言の延長線上であり、発展させたものと考えるのが妥当なのかもしれません。何より独り言には、思考を整理したり、悩みや不安を和らげる効果があるようです。女声で楽しく独り言をすれば、独り言の効能を上げることができるとも考えられます。

(Wikipediaを読む限りでは、私が発達障害などの精神疾患を抱えていることを裏付けるような内容があるのですがね。母親の車と私の車がすれ違ったときに、「誰も乗っていないのにひとりで笑っていて気味が悪かった」と言っていました。女声を出している最中だったのでしょうから無理もありません。最近では女声を出すときとゲームをするとき以外で独り言を喋ることはほとんどないため、そこまで深刻な問題はないと考えていいでしょう)

世間で定着している女声の価値観との違い

ニコニコ動画で『両声類』が流行っていた時期を女声ブームの皮切りとして、女声で男を釣るだとか、女声を出して相手を驚かすといった、一般的に知られている女声を扱う配信者のような動機ではなく、ストレス発散や発達障害の成り行きから女声が磨かれていったと、私の場合は根本的に動機が異なるわけです。同時に価値観の違いも表しています。つまりは他人に対して女声を用いるか、自分に対して女声を用いるかの違いです。

そういえば以前に書いてましたね。

あなたは誰のために女声を出すのでしょうか。結局のところ、他人のためではなく、自分のために女声を出したほうが、モチベーションを維持しやすいということになります。女声に限った話ではなく、創作全般でもいえることかと思います。

4時40分、執筆終了。

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