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#118 自分で決めたことだから‥‥#エンジンがかかった瞬間


久しぶりのInstagramを開けたら、一粒サイズの塩味パイが目に飛び込んできた。
シェ・リュイのものだという。


シェ・リュイ‥‥ その懐かしい名前に、「若いということ」への眩しさや苦さがわっと込みあがる。



24歳のことだ。
都心で看護師をしていた私に、唐突に

「イギリスに行こう」

という考えがひらめいたのだ。自分の部屋で掃除機をかけていた時のことだった。
私になにかの思いが不意にやってくるのはなぜだかいつもシャワーの時か、アイロンがけの時か、掃除中と決まっている。


それからの私が動いた。


それは「行きなさい」という天からの声ではない、内側からの揺るぎない意志だった。生まれてから一度も日本を出たことのなかった私が、だ。

そして私は、新卒で3年と3か月勤めた大学病院を辞めた。

職場には「結婚します」と告げた。
今でも現役のゾーリンゲンの包丁は、寿退職のお祝いにその時頂いたものである。

イギリスへ行くと決めたら何を置いても「英語力」を準備しなければならない。
もちろん旅費も学費も生活費も必要なのだ。それなのになぜ病院を辞めたかといえば、決まった時間に必ず英会話スクールの授業に参加することが大前提であったから‥‥
夜勤があって不規則な勤務形態ではそれが絶対に叶わなかった。

その当時、看護婦寮という有難い選択もあったはずなのに、たった一部屋の自分の城が持ちたいがためにマンションとは名ばかりの部屋を借りた。
今の自分からすれば愚かで、親孝行からは対極にある「自分勝手」としか言いようがない娘だった。
その報いとして、24歳の私には貯金がなかった。

まずはお茶の水と水道橋の間にある学校での英国人講師によるグループレッスン、下北沢の英会話スクールで日本人女性によるプレイベートレッスンを決めてきた。
仕事はその時間にかからないように入れた。

日中は派遣ナースの仕事をした。
会社の集団検診や、学校の予防接種のチームの一員として、毎日地図を頼りに現地集合で仕事が始まった。

インターネットのない、携帯電話さえ誰も持っていない時代だ。朝、集合場所にたどり着くまでにどれだけの冷や汗をかいたことだろう。
無事に検診グループに合流できた時点で『仕事の大半は終わった』という気がしたものだ。

同じ派遣会社が可能な限りの組み合わせを提示してくれたことで、高齢のおばあちゃんの夜間の付き添いの仕事もいただいた。

とても自尊心の高い方で、ご本人は「大丈夫、すべて自分でできる」という気概であった。そのことが私にも務まった唯一の理由だった、とは今更ながら思う。

おばあちゃんが夜中に起きてトイレに行く時に、その気配に気づき、転ぶことなくベッドに戻られるのを見届けるのが私の役目だった。
看護師でなくてもできる仕事に思えたが看護師の時給をいただいた。
人には言えないけれど、私がおばあちゃんの音に気づかずに寝続けた夜もあったろうと考えたら恐ろしい‥‥

私を雇ったのはその家に住む娘さんであって、おばあちゃんはむしろ、誰かに心配され偵察されることのほうが嫌だったのだろう。起きれなかった私を責めることも告げ口することもない。朝になってお手伝いさんが用意してくださった至れり尽くせりの朝食をおばあちゃんと娘さんと一緒にいただいて帰った。
もしかしたら、私のような第三者がいたほうがふたりが会話しやすかったのかな‥‥と、今ならちょっと思える。


基本、夕方から夜と決まっていた英会話レッスンのない曜日には、下北沢のフランス料理店でウエイトレスの仕事も入れた。

それがシェ・リュイだったというわけだ。
懐かしい2階のレストランは現在いまはもうないことも知った。

看護師しかやったことのなかった私が、稼働できる時間を少しでも使おうと、「働かせてください」と飛び込んだパワーは、イギリスに行く決意が原動力になったとしか思えない。


そうやって約2年間、脇目も振らずにイギリスへ行くことにフォーカスした日々。
どれだけ働いてもつらくなかったあの頃。
そんなことを、懐かしいお店の名前が思い出させてくれた。



そしてイギリスへ。
過ごした一年間は、あのひらめきがなかったなら知り得なかった世界を私にくれた。
私の人生が想像だにしなかったように展開していく‥‥


英国留学から戻ると同時に両親に告げなければならないことがあった。
そして私は両親から勘当された。

両親が理不尽だったのならどれだけ救われただろう。

なぜなら私はイギリスから戻って結婚するはずの人、私を一年間待っていてくれた人の胸に飛び込むことができなかった。
イギリスで好きな人ができたからだ。

「あんたのしたことは人としてルール違反や」

自業自得の私は、母のこの言葉をかつてないほどに素直に飲み込んだ。

親兄弟は私のしたことがどれだけ情けなかったことだろう‥‥


家に居られなくなって、東京に戻るが、東京にあったのは結婚するはずだった人が私の代わりに移り住んでいてくれた部屋。
私が戻れる場所ではない。


親も兄弟も頼れない私は、恥ずかしくて友達も頼れなかった。それからの、お金もない私の空っぽの生活をどうやって仕切り直したのか‥‥

私が憶えているのは、下北沢の駅前の不動産屋さんのおばさんの温かさ。

初めてお会いして「申し訳ありません、保証人はいません。どうか助けてください」と頭を下げたこと。
「事情を話しなさい」と言われたこと。

おばさんの前でおんおん泣いたこと‥‥

どんな物件でもよいのでできるだけ安く、という私に、
半年もすれば取り壊し予定の物件、
3畳一間の部屋を貸してくださった。


あの頃のことはあまり憶えていない。
大切な人を裏切った自分が悲しすぎたから‥‥


「イギリスへ行こう」といきり立った、あのエンジンの勢いは萎えていたけれど、

あの時に誰にも甘えられなかった私を、気にかけてくださった人がいたから私はなんとか生きられた。

下北沢の駅を出て、私のアパートに帰る時に必ず通る不動産屋さんの店先で、座ったまま私に手招きをしていたおばさん。

「どうせろくなもん食ってねえんだろ。芋ふかしたから食っていきな」

私は東京はおしゃれで粋がった街だと思っていた。
肩パッドを入れて歩いている自分が「芋食ってけ~」と呼び止められるのだ。

過ちをおかした私のことを、あのおばさんは受け入れてくださった、そのことがありがたくてエンジンを止めないでいられた‥‥

自分では意識していなかったけれど、あの頃の記憶はおばさんの手招き一色なのだ。



あれからもう30年になるのか。

あの時にイギリスで恋に落ちた相手は今も私の隣にいてくれている。3人の子どもたちという宝もいただいた。


イギリスから来た夫を迎える場所は電車が通れば揺れる、あの3畳の部屋しかなかった。いまでもふたりで笑える思い出だ。

下北沢にはあれから行っていない。

街はさぞかし様変わりしたことだろう‥‥





尚、冒頭の画像はシェ・リュイオンラインショップからお借りしました。


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