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【フレスコボールマガジン RALLY & PEACE】山下祥・弘田聖[1]

それぞれのフレスコボールに対する想いを語っていただく、フレスコボールマガジン「RALLY & PEACE」。第2弾は、山下選手・弘田選手です。関西が誇るユーモアコンビは、実は関西フレスコボールの普及になくてはならない立役者。熱い想いを聞きました。

忘れられない1日

2020年2月23日。この日は、山下祥弘田聖にとって忘れられない1日になった。彼らが所属する、フレスコボール関西Grêmio VENTO(GVK)主催のローカル大会「明石ゲラゲラカップ」当日。

東京、大阪、奈良、香川、高知、福岡…全国各地から集まったフレスコボーラー達と、地元明石のお父さん、お母さん、子どもたち。集まった人々は、70名を超えた。地元の可愛い姉弟の選手宣誓、日本代表と明石のお父さんの夢のラリー、賞品は地元の特産品。笑顔が、歓声が、1日中、弾けていた。

明石海峡大橋のふもとのこの地に、ふたりが初めて立った日には想像もしていなかった光景が、広がっていた――。

「創る」喜び。

山下祥のフレスコボール歴は、東京で働いていた2016年に遡る。大学時代に知り合っていた芝卓史選手のSNSでフレスコボールを知り、「思いやりのスポーツ」という競技特性が自分に合いそうだと感じた。会社の先輩・松浦孝宣選手を誘いフレスコボール界に飛び込んだ。

広告代理店の営業から、コピーライターになる夢を叶え大阪に拠点を移したのは、2019年1月のこと。当時、関西でのフレスコボール人口は片手で数えられる程度。松井芳寛選手・風味千賀子選手の夫婦が、周囲の友人に声をかけて段々と組織になりつつある頃だった。「ちょっと強く打ったアタックが返ってこない。東京時代の”練習”とは程遠い日々が続いた。それでもフレスコボールが楽しいと目を輝かせて来てくれる人たちがいた」。

職業柄、「創る」ことが好きな山下の血は騒いだ。クラブ名の考案からロゴマーク、ホームページ、普及のためのクラブカード作成などできることはすべて捧げた。仲間が、ひとり、またひとりと増えていく感覚に、東京時代以上の「創る」喜びを感じていた。

2019年3月のオオモリカップの関西からの出場ペアは、山下・岸田直也選手ペアと、女子の風味千賀子選手・宮山有紀選手のペア、わずか4人。

「東京を離れてたった数ヶ月、慣れ親しんだはずの場所での5分間はアウェイだった。プレー中の1分間の休憩で戻る場所がない。そんなとき、逗子フレスコボールクラブの人たちが自分らをまるで仲間のように応援してくれたことだけは鮮明に覚えている」。

それが、7月のミウラカップのときには、7ペアに増えた。自分が関西に来た頃にはフレスコボールなんて知らなかった仲間たちが、自分が知っているすべてを教えた仲間たちが、関東の地で躍動していた。そして、関東の仲間たちも、関西でできた新しい仲間達の姿に、長い友達だったかのような声援をくれる。もうそこはアウェイではなく、ホームだった。

気づいたら試合が終わっていた。ミウラカップ男子部門、山下・岸田ペアは2019年度最高得点(1253点)、最低落球数(5球)で優勝。山下にとっての初タイトルは、フレスコボール関西にとっての初タイトルでもあった。「自分より先にプレーしたGVKの仲間の勇姿に心が奮い立った。今ではみんなとアタック練習だってできる。だからこそ、これは”みんなで勝ち取った優勝”だと思う」。山下は優勝インタビューでそう口にした。

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必然の出会い。

弘田聖のフレスコボールとの出会いは、2019年6月。銀行員として忙しい毎日を過ごしていたが、何か物足りなさも感じていた日常。新しいことを始めたく模索していた。そんなとき、日本フレスコボール協会アンバサダーの五十嵐恭雄選手のSNSでフレスコボールの動画を目にした。

思いやりの中にも競技性があり、面白そうだった。大学時代の同級生である岡村俊孝選手とともに、気がつけば、ラケットも持っていないのに、次の公式戦・ジャパンオープンへの出場申し込みをしていた。

「はじめての大会で、爪痕を残したい」。そんな思いで、仕事終わり、薄明かりの公園で岡村選手とともに練習を重ねていた。もともと高校まで野球部に所属した体育会系。やると決めたら、本気でやりたかった。毎日、一流選手たちの動画を見ては、見よう見まねでアタック・ディフェンスを身に着けた。

関西で公園などを転々として練習していた弘田たちは、あるときJR桜ノ宮駅にほど近い人工ビーチの存在を知る。休日はビーチバレーやビーチテニスなどのサークルで賑わう公園だ。練習にはさらに力が入った。

ジャパンオープンまで残り1週間。その日、桜ノ宮ビーチには弘田たち以外にもフレスコボールをしているグループがいた。それがGVKの面々であった。

「兼子修治選手から“フレスコやってるんですか?一緒にやりませんか?”と声をかけられた瞬間は鮮明に覚えている。あれがなかったら、ジャパンオープンに岡村選手と出て満足して、それっきりだったかも。」

その日の練習終わり、GVKの松井代表から「はい。仲間」とラケットにチームロゴのシールを貼られた。人生が変わった出会いの日だった。

人生の交差。

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ジャパンオープンの弘田・岡村ペアの結果は男子17ペア中16位。悔しかった。しかし、それ以上に、すべてが温かかった。

懇親会では関西だけでなく四国や逗子のメンバーと人生の話もした。女子部門の試合では、プレッシャーに打ち克った風味・宮山ペアの優勝の涙に、もらい泣きをしそうになった。そして自分たちの出番では、初心者の一挙手一投足に、会場が沸いた。ファインプレーに、自分たち以上に喜んでくれた。

「出会って1週間の人たちにこんなに応援されて、出会って1週間の人たちの涙にぐっと来て。こんなにあったかいスポーツは他にあるだろうか、って。何かやりたいと思っていた毎日に、欲しかった感覚はこれだったのかもしれない」。

いっぽう、山下・岸田ペアの結果は惜しくも男子5位。岸田選手はミックス部門で見事優勝を飾り日本代表の座を手にしたが、山下にとっては、ミウラカップの優勝でかすかに見えていた日本代表の切符は、スルスルとその手から抜け落ちていった。

それぞれの想いで終えたジャパンオープン。ふたりの人生が交差するのは、それからまもなくのことだった。

[2]に続きます。

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