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雑草という概念(意味と排除)

最近、ガイアの思想という本を読んだり、ホールネスという考え方をに接したり、無境界という言葉に多く接する機会があった。

それで、こんなことを思った。

草、それって一体どこの誰が、草という概念を作ったのか?

草という概念を作って、もっといえば、雑草という概念を作って、ほかの植物と差別化を図ったのはなぜなのか?

そんな事を疑問に思った。

わたしの考えでは、基本この星に生まれてくるもの、生命を与えられ、生まれてくるものは皆、何らかの意味や目的があって生まれてくるものとおもっている。

だから、その意味があって命を授けられ、この世に生まれてくるその生命をなぜ、わたしたちは、一方的に雑草だと決めつけて、その草を排除しようとするのか?

これはわたしにとってはとても不思議なことだ。

山を歩けば、そこにはたくさんの草が生えている。その草を誰も取ろうとはしない。

山はすべての自然を包含している。

でも、一歩地上世界に降りれば、そこではこれは草で、これは花というような分断がある。

そして私たちが生きるこの世界では常に、傲慢な人間による一方的な価値づけがあり、多くの植物が殺されている。

それって、なんだかおかしいなあなんてことを最近よく考える。

ホールネスという立場に立っていろいろな事を考えて見たときには、命あり、この世界に生まれてくる物にはすべて何らかの意味や、目的がある。

とするならば、そのものの持つ目的、命があることの意味、それをなぜ、私たちは深く考えようとしないで、一方的にそのものの価値を決めてしまうのか?

これがわたしにとっては不思議で仕方がない。

これはいいとか、悪いとか、どうしてそんな判断を人間がとることができるのか?なぜ、人間はそこまで傲慢なのか?

いつから人間というのは、そんなにもえらくなったのか?

こういうことを永遠に考えていくと、これはこういう物で、これはああいう物だ!とそう判断している自分という存在も、一体何なんだとそう思えてくる。

わたしが思うに、本来は何も判断などできない。どこにもケン・ウィルバーがいうように境界などない。

でも、今私たちが生きるこの世界は境界だらけ。

何でもかんでも、人間が一方的にそのものの善し悪しを決める。その価値を決める。

自然は言葉を持たない。だからこそ、私たちはその声を持たない自然をいかようにもすることができる。

これは草に限らず、何にでもいえる事のような気がする。

この人はいいけれど、あの人はだめとか、あれはいいけれど、これはだめだとか、とにかく、私たちはこれとあれの間に恐ろしいほどに何らかの境界を引きたがる。

これとあれというような線引きがどうやら私たち人間は好きで仕方がないらしい。

そしてその線引きをするために、私たち人間というのは、様々な概念を作り出す。

と考えていくと、概念を作り出す人間がなんだか悪魔的に見えてきたりする。

この世界は本当に不思議だ。

ホールネスの立場に再び立てば、この世界に存在するすべての物には意味がある。目的があるはずなのに、それを認めようとしない。

あたかも、それらには何の意味も、そして価値もないと平気で人間は謳い、その価値のないものはこの世界にはいらないといって、その命を一方的に奪い取る。

なんだかつらい世の中になってきたななんて最近強く思う。

すべてがつながり、そしてこの一つの世界を作りあげている。この大きな生命体を動かしている、そうだとしたら、私たちは排除することを考えるべきではなく、そこにあるすべての物に、何らかの意味を、そしてその物が存在する事の目的をもっとじっくりと考える事が必要だったりするんじゃないかと思ったりする。

草を雑草であると決めつけ、抜き取る事ではなく、考えるべきは、そこに生えている、生息していることの意味を考える事がこれからの時代には必要な事ではないかとも思ったりする。

これは私たち人間にも同様に言うことができる。

わたしとあの人、そこに境界を引くことではなく、わたしもあの人もという同じ目線に立って物事を考える事ができる人間、そういう人間が今後増えてくればいいのにななんて思う。

誰も意味のない人間はいない訳で、わたしとあの人の間に境界を引くからすべてがおかしくなる。だとしたのなら、その人が存在する事意味を考える事の方がよっぽど大切だ。



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