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美醜を分けていませんか?(Self Manegemant)

こんにちは。Recovery of humanityの美月詞葉です。

今日は、わたしたちはいつからキレイを目指そうとしたのか?というテーマについてお話していこうと思います。

何故、わたしたちはキレイになろうとするのか?

色々な人と対話をしていて考えることですが皆、何故か必死になってキレイを目指している気がします。

綺麗であることがいいことであり、それがもっと心の中で強烈になってくると、綺麗でなくてはならないという強迫観念の様なものにどんどんと変化していきます。

様々な人を見ていると、こうした想念に強く囚われている人がとても多い印象を受けます。

そもそも、その綺麗である事を盲目的に追いかける人(美を争うコンテストは別として)というのは、自分の醜い部分を受け入れられないからこそ、それを隠そうとして綺麗さを過剰に追い求めてしまうといったケースも少なくはありません。

強い身体的コンプレックスを持つ人ほど、この綺麗さというものに強く執着する傾向が強いと思います。

自分の中で美醜を分けていませんか?

多くのクライアントさんは、自分の中で美醜というものを完全に区別してしまっていると感じます。

眼は好きだけど、身体は好きじゃない。口はキレイな形だけど、耳の形が好きではない。など。

わたしたち人間というのは、なんでもかんでも分けて考えようとします。これとあれというようになんでもかんでも分けて考えようとします。

全ては1つであって、それらは別々に分けられるものでは本来ないのですが、わたしたちはそれを事細かに分けて、美しいものと、美しくないものに、分けて物事を判断しようとします。

そして美しいものは残し、美しくないと思うものは、自身から排除しようとします。

でも、よく考えてみてください。

わたしたち人間というのは、そもそもその機能を機械の様に分解して分けられるものではありません。

これからの時代は、そんなこと言ってたら遅れているとそういわれてしまうぞ!といわれるかもしれませんが、自身を自分の好きにカスタマイズするという時点で、私たちはもう人間ではないという事になります。

ここで考えるべきこと、それは何故自分がこの身体を自分の好きな様にカスタマイズしたいとそう望むのか?という事だと思います。

何故、わたしたちは自分をカスタマイズしたくなるのか?(美にこだわるのか?)

この理由をいくつか挙げてみたいと思います。

  1. 自分の醜さを受け入れられないから

  2. 自分の中で美醜の区別をつけているから

  3. 自分を事細かく分解することが可能な要素還元的な存在であると感じているから

  4. 自分が本来美しいものであるという事を完全に忘れているから

わたしたちは、外部に変化をもたらすことに懸命になっていますが、この外部に変化をもたらすことよりもむしろ、わたしたちは内面に変化をもたらすことの方が重要だと考えます。

なんでもかんでも、あれとこれというように自分の判断で区別してしまうその習慣をまずはやめるべきだと私はいつもクライアントさんにお話をします。

どんなに嫌なことでも、どんなに受け入れられないことでも、それが自分を形成するものであるならば、それを私たちは自分のものとして慈しむことが必要であると私はいつもお話させて頂いています。

自分の中に美醜の区別を作ったのはなぜ?

自分の中に美醜の区別を作り、そのうちの醜だけを排除するようになったのは何故だと思いますか?

私たちは、他者と自分を完全に別のものとして比較するようなシステムの社会の中に生きています。

この社会は常に、自分と他者を比較するように作られています。これも、本来であれば、自分と他者の間には何の境界もないのですが・・・。

でも、私たちは自分とあの人は別の人とそう他者を区別して見ているので、その他者の事が気になって仕方がない。

そしてその他者との間に差異性を見つけ、そして、そこに強い嫉妬心を燃やしたり、逆に強い劣等生を感じたりしているというのが実情です。

本来は美しいも、醜いもない。それは人間が作り出した価値判断に過ぎない

美醜を分け、美だけを良いものとして、醜を排除しようという動きは、わたしたちの心にあるだけではなく、心にあるものは、この社会全体にも広がっています。

それが人種差別であったり、戦争です。

自分たちには人間としての価値がある。でも、自分たちと違う民族には人間としての価値はない。だからそうした人間の命はそれほど重要ではないという事です。

いつの時もこの分断が、世界を荒廃させてきたという過去がわたしたちにはあります。

何か大きな問題が立ち上がる時、そこには強烈な分断がその前提として必ずと言っていいほど起こっています。

分けること、隔てることで生まれる優生意識

社会もそうですが、そこに分断を持ち込むと必ずそこには憎しみの感情が生まれます。

どちらが優生でどちらが劣性か?これを区別すると、そこには必ず感情の歪が生まれます。

このことは自分の身体の部分に美醜をつける私たちにも同じことが言えると思います。

ここはいいけれど、ここはダメ。あそこはいいけれど、ここはダメ。私たちは自分の身体や心に対して、この分断行為を毎日して、自分にとって不必要とされた劣性をどんどんと捨て、そこに新しい自分にとって都合のいいものをカスタマイズして取り入れようとしています。

本当にこれでよいのでしょうか?

私はクライアントさんとの対話の中でよく、自分をいくつにも分解しないでその全てを自分として受け入れていくようお話をさせていただいています。

どれもこれも自分に必要な要素であり、そのどれも欠かしてはならない重要な要素として私たちはその全てを慈しむ必要がある。

こうしたことを色々な方にお話しさせていただくのですが、この話が彼らに本当の意味で浸透していくにはそれ相当の時間がかかります。

倫理的な事を除けばいいも、わるいもない

私がマネジメントでクライアントさんにお話しすることは、この倫理的問題を除けば、究極、良いも悪いもないということです。

良い、悪いとなんでもかんでも区別して分け隔てて考えようとするから、自分の心の中が苦しくなる。あれもこれもそれも、その全てが自分に必要な要素であり、そのどれも欠かすことは出来ない自分の重要な要素である。

こうした話を前提に、どんなに自分に不利だと思われることも、自分から今すぐに取り除いて見えなくしてしまいたいと望むことも、その全てを自分にとってかけがえのないとても大切なこととして自分自身に抱えこめるよう、私のマネジメントではお話させていただいています。

分断が大切なことではありません。あれこれと分けることが大切ではありません。何も分ける必要などありません。何故なら、その全てが皆、その人にとって欠くことのできない重要な要素だからです。

セルフマネジメントとは、分断して、優劣をつけていた自分をある種一つに統合する方法であるともいえるのかもしれません。

これはわたしではないと否定し、排除することではなく、これも又私であるとそう理解し、受け入れ、愛すること。そうすることで、自分にとっての劣性、弱みであると思っていたことは逆に自分にとっての一番の強みになり、
これを継続して行っていけば、自分にあるものは強みだけ、つまり、全てが優れたものであるという境地、絶対肯定の領域に辿りつくことが出来ます。

その時、自分の中で分断されていた、その全てが一つに統合され、その人は必ず飛躍的な進化を体験することが可能となります。

もし本気で自分を変えたいと望むのであれば、以下のホームページをご覧いただくか、プロフィール欄のリットリンクより、その内容をご参照ください。






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