思木町6‐17‐4(11)


  北向き、ファウル・トラベリング

 屑葉の上で目を覚ますと、まだ辺りは暗かった。朝になっていないのだろうかと、毛皮に包まれたまま考えていると、雨の音がしていた。横になったままウロのなかを眺めていると、蔦や蔓の輪郭がぼんやりと浮かんできた。わたしは窓の方を見た。雨が降り続けているが、夜は明けたらしい。寝返りを打って出入口の方を見ると、セレンが横になっていた。毛布がたゆたい、規則正しく呼吸をしている。まだ眠っているらしい。
 わたしは靴を履いて、静かにウロのなかを歩き、衝立をそっとずらして廊下に出た。
 九階の外の廊下は、糸のような雨が降りしきっていて、森の果てまで灰色の雲で閉じ込められていた。薄暗く――森の林冠も、マンションの緑も、波止場のように色が褪めている。随分前から決めていた出立の日が、生憎の天気になってしまった人の気持を考えた。わたしはエレベーターの木まで、廊下を静かに歩いた。誰にも会わず、音もしない。か細く雨の降り続けるマンションの廊下を歩き、エレベーターの木の前まで来ると、縄梯子を引っ張って屋上に上っていった。
 揺れる梯子に足を掛け、木を上って行く。真っ暗な筒の中はほとんど水中と変わりなかった。苔の付いている木肌に水が伝い、縄梯子はじっとりと滑る。四方に着く露を含んだ内壁は、ひんやりとした甕の中のようだった。呼吸は、酸素と一緒に水を入れている。わたしは、手足を順に動かしながら、ほのかに明るくなっている出口へと泳いで行った。
 木を上って屋上に立ち、庭の中まで歩いて行った。周囲には、無数に雨の線が引かれている。空は、天も端も、煙を籠めたように塞がり、雲は動きを停めている。灰色の空の下を、観測所まで向かった。植木も花にも、色が無い。
 わたしは、観測所の中に入って周りを見渡していた。部屋の中は、右も左も、どの面の枝も正確に刈り込まれている。上下四方、木と植物で出来ている場所のはずなのに、ボール紙で作ったような歪みの無い直方体の中に居る気がする。いや――ノートに書いた製図のような、CGの内部のような――もっと完全な、頭のなかにしか存在しない「直方体」のなかに居る気がする。わたしは、その中心に置かれている土の器をじっと見た。
 キイ……と柵を押して、閉じると、通路を通って庭に出た。わたしは柵の際にあるベンチに座った。脇を見ると、板にこさめが掛っている。水が溜まっている所があり、それは、一つの世界に見える。正方形の庭園に雨が降り、柵の外にも等しく雨が降っている。灰色の空の下、樹海の真ん中にある、マンションの屋上のベンチにわたしが座っていると、植木の影から女性が現れる。片腕の彼女は、長い髪を揺らして、屋上庭園の中央を歩いて来ると、庭の端に座っているわたしの前に立つ。
「おはよう」
 セレンとわたしは向かい合って、お互いの顔を眺めていた。
「何してるの」
 わたしたちはお互いを見ながら、何となく周りの音を聞いていた。庭に落ちる、柵の周囲に広がる、雨の音を聞いている。
「雨にうたれに来たの?」
 わたしとセレンは笑った。
「そうだよ」
 わたしたちは、隣に在る、直方体の観測所を見た。対辺も直角も、小数点以下最後までが完全な、「直方体」の観測所。
「『観測』しに来たんでしょう」
「何か見える?」
「中に入っているときは、見えた気がするけれど。分からない。出ると忘れちゃうから」
「見えても見えなくても、分からなくても忘れてしまっても、どちらにしても。関係無い。結局は闘わなきゃいけない」
「どこに居ても」
 わたしたちは、灰色の空と森の海原の中心に立つ、マンションの屋上を歩いて行った。庭園を通り抜けて、エレベーターの木まで来ると、梯子に下がって下に降りて行った。

 九階の、西の廊下の端のウロは、まだ随分と薄暗かった。わたしとセレンは炉端に座り、朝食を取った。ぷすぷすと焚き木の火が揺らぐ。わたしは右の、ベランダの方を眺めた。北の森にも静かに雨が降っている。
 ルミさんとメの子が一人、煮炊きしたものを給仕しに来てくれたが、わたしは食欲が湧かなかった。セレンも何も食べない。わたしは二人に謝って、器を下げてもらった。葉の上に置いてある果物だけを残してもらうと、わたしは立ち上がって、甕から水を汲んだ。西側にくり抜かれた四角い窓からも、雫が枝を打つ音が聞こえる。ボンヤリ滲む火の前に座り、セレンとわたしの、間に置いてある果物を取って、皮を剥いていった。
 指に汁を付けながら、生の果物をかじった。南の廊下を隔てる衝立は、うっすらとはしているが、薄暗い。天気が悪いせいで、日がどのくらいまで昇っているかも分からなかった。まだ、それほどの時間は経っていないと思うけれど、それも定かではない。閉ざされた部屋の中で、箸の間に乗せた土くれのように、ぼとり、ぼとりと時間が落ちているような感覚は、たまに感じることがある。今までも何回か――いつも、何か決まった時に、感じているような気がする。
「ミナ、チョコレイトをくれないかしら」
「えっ?」
 囲炉裏の右側を見ると、いつの間にかセレンがこちらを眺めていた。
「チョコレイト。ちょうだい?」
 わたしは立ち上がり、ウロの隅に置いてあるリュックまで来て、正面のポケットを探った。銀紙を丸めたものを取り出すと、それをセレンに渡した。包み紙はいつの間にか、どこかに行ってしまっている。
「ごめんなさい、割ってくれる?」
 セレンからチョコを受け取って、延ばした銀紙の上から割ろうとした。もう、残り少ない。2×2個分、区切りがありそうなので、二つに割った。チョコは音も無く、静かに折れ曲がった。皺皺の銀紙のまま渡すと、セレンは中から一つを出して食べた。いびつな褐色の破片は、筋に関係なく下手に分かれていた。
「ミナは食べないの?」
「わたしはいい」
 セレンは銀のかけらを持って、こちらを見ていた。
「いや、でもやっぱり食べようかな」
 セレンは微笑んで、手を伸ばした。わたしはチョコを受け取り、それが案外大きかったので、もう半分に分けた。欠片を一つ落とすと、口のなかに入れた。決して食べたくは無かったが、食べた方が良い気がした。少しでも栄養を取る方が――良いはずではある。
「もうひとつ食べる?」わたしはセレンに聞いた。
「一つでいいわ」
「もう最後だよ。わたしはいらないけど」
「残して置いたら」
 ほんの一粒くらいしか無いけれど、それでも、もう食べる気はしない。わたしは残りを銀紙に丸めた。リュックのところまで行くと、それをポケットにしまった。

 リュックのフラップを上げ、中から着替えを取り出した。Tシャツを脱いで、ここに来るときに着ていた麻のシャツを出して纏った。青い布地を見ながらボタンを合わせていった。身頃は皺がふくらみ、さざ波のようになっている。
「それがあなたの狩衣?」セレンは床に片手をついて、こちらを振り向いている。
「そう」
「綺麗なソラね」
 わたしは焦げ茶のジャケットを取り出した。雨が降っている分、涼しいけれど、シャツの上に上着を着れば暑い。でも、身体を守るためには、少しでも着ておいた方がいいはずだ。上着の袖を通すと、顔をチェックしたくなった。髪はおかしくないか。目脂は付いていないか。鏡――ウロの壁にも、廊下にも。エレベーターの脇にも、庭園にも、このマンションのどこにも、鏡は置かれていない。ここは、鏡の無い世界だ。わたしはリュックのポケットを探り、金属の円盤を取り出した。セレンがくれた「鏡」を見ると、わたしの顔はぼんやりと、霧のむこうに映っていた。とても、目くそや前髪を見る用途には役立てられない。わたしはそれをリュックに戻した。
「セレン、恰好おかしくない?」
 セレンは手をついたまま、ネコのように身体を曲げた。
「別におかしくないわ」
「顔は汚れてない?」
 セレンはわたしの顔を見ていたが、音もせず、すっ――と立ち上がると、こちらに来た。セレンはゆっくりと近づいて、わたしのすぐ目の前に立った。つま先が触れそうなくらい近くで、向い合せに佇んでいる。わたしは目の前にあるセレンの顔を、しばらくの間、眺めていた。眉や、目の頭から端。鼻筋――頬ぼねの辺り。口もと。口もとの窪み。
「別におかしいところはないわ」
 セレンはそう言うと、くるりと返って炉端に座った。横になって足を組むと、窓の方に顔を向けた。
「分かった。ありがとう」
 セレンは何も言わず、おそらくは――雨の音を聞いていた。燻る火の後ろに居るセレンを見ていると、土も草も溶かし込んでいる雨のにおいがしてきた。わたしは踵を返した。
「外に出るの?」
 振り返ると、セレンがこちらを向いている。
「ちょっと、オたちのところに行ってくる」
「そう」
 わたしは衝立をずらすと、外の廊下に出た。

 わたしはマンションの外の廊下に出ると、左に曲がって、そこを歩き始めた。外は、変な天気だった。絵のように、空に灰色の雲が描かれている。エレベーターの脇を曲がり、非常階段に降りる境目を通り過ぎ、廊下を行止りまで歩くと、一番端の部屋に入った。

 わたしは座って、出された水を飲みながら、ちょっと右を向いて北の森の方を眺めていた。暗く、ほとんど見えないが――雨は止む気色も無く、そうかといって強まりもしない。ウロにはもちろん、ガラス一つの隔たりも無く、座っているわたしの頭の端にも、ぽっかり外界に孔が穿たれているけれど――変わらない。閉ざされた室内に居るのと同じく、外の変化は感じられなかった。わたしの頭に、休日、デパートの中で買い物をしている光景が浮かんだ。時間の経過が、上手く分からない感じだ。
「ミヨウヤはまだ現れませんか?」わたしは、囲炉裏の隣の辺に座っているオーキナにたずねた。
「現れませぬ。セレンは日暮れどきになると言っていましたなあ」
「ええ、わたしも聞きました」
 オーキナは、長い白髪を頭の後ろで束ねていた。何で髪を結んでいるのだろうかと見ると、真っ直ぐな白髪の流れに、茶色の木の紐が見えた。 
「今、何時ごろでしょうか」
「何時とは」オーキナは穏やかな顔で、こちらを向いた。
「夜が明けて、どのくらい経ったでしょうか」
「ちょうど、日がてっぺんにあるころでしょうな」
「分かりますか」
「分かります」
 わたしには分からない。南の出入口も、北のベランダも、頭の後ろの方にある孔も、目には見えても、それは「そういう絵」のようにしか思えない。実感は、ビルのホールの絨毯の上や、臨海部の催事場――閉されている函の中。
「ミヨウヤは、本当に夕方ごろに来るのでしょうか」
「と、言いますのは?」
「それは、つまり――」
「つまり、セレンの言うことは当たるのか、ということですかな」
 オーキナは目尻の皺を増やして、わたしの瞳を見た。わたしは目線を下に向けた。脇では薪が爆ぜている。
「勿論、万が一の事を考え、今でも見張りを置いておるのです」
 わたしが改めて顔を上げると、オーキナは目前の火を見据えていた。銅粉をまぶしたような赤い毛皮を、目の前の小さな老人は着込んでいる。膝元の床には、長い木の棒の先に、切片を付けた槍を置いている。わたしは正面を向いた。ここは九階のクバと同じ間取りで、スペースがある。囲炉裏の向こう側には、筋骨隆々で、浅黒い、背の小さなオ達が、焔越しにずらりと並んでいた。全員、オーキナが着ている赤い毛皮を纏っている。おそらく、今まで彼らが狩ってきた、小さなミヨウヤの毛皮なのだろう。袖は無く、赤い毛はチョッキのように彼らの胴を覆っている。背の低い男達と石槍と、赤いチョッキが、部屋の中に並んでいる。その端に、髪を纏めたカツミが立っている。

 部屋を出るとわたしは、マンションの廊下を歩きだした。灰色の空に、粉糠雨は降り続けている。風も無い空間に夥しい、ふけのような水滴は、蔓の塀の先の――遠い森の上で、止まっているようにも見え、下から上へ動いているようにも見える。小さい頃、透明な扇風機の羽を見つめていた記憶を思い出した。首を振り、パチンとスイッチを切ると、動きが弱まってゆく。羽は、段々と回転を遅くする。右に回っていると思えば、左に回っている。ふとした瞬間には、止まっているようにも見えた。わたしは非常階段の樹をゆき過ぎ、エレベーターの脇の角を曲がった。パチン――と、枝を踏む音が、空間のどこかから聞こえた。上の階でも下の階でも、わたしと同じように、誰かが廊下を歩いているのではないだろうか。ゆくように、かえりながら。わたしは上着のポケットに両手を入れた。ポケットの中には、皮の袋に入れられた、白い固い、石の杭が入っていた。わたしはその石杭を握り、ウロのなかに入った。

 人の、多く居るところの匂いがする。いや――これは、特定の時間、決まったときに、沢山の人間が集まるような場所の気配だ。ハコには感情、興奮が詰まっている――様に思える。観客席にも人は集まっているし、フロアにも選手は居る。電灯は均一に、プレイの妨げにならないよう、充分過ぎるほど明るい。床には影さえ落ちていないんじゃないか。ただ――漂う匂いは奇妙にさびしい。
「三奈先輩」
 青いゼッケンを着たかどちょんが、こちらを見つめていた。脇の下にぴったり付いた袖口から、白いなめらかな腕が生えている。
「どうした」
「いえ、暑くないんですか。そんなの着てて」
 わたしは、ゼッケンの上に毛皮の上着を着て、観客席から大きな体育館のコートを見下ろしていた。スタンドの椅子は――左右に――果てしなく続いている。かどちょんは隣の座席に座っていた。
「カドこそ、身体冷やすよ」
「大丈夫ですよ」
 かどちょんはそう言って、バスケットコートの方に向き直った。本当に大丈夫だろうか。彼女の白い一本の腕は、とても無防備に、外界に晒されているように見える。その、なめらかな肌をじっと見ていると――手から臂、二の腕から腋窩まで――胸の横の、薄い肌の付け根から、生えているように見える。わたしはその腕を、自分の両腕で抱え込むようにして、抱いて、見ているような気がする。腋の下の、窪みの匂いさえ、鼻に嗅いでいるような気がする。
「三奈先輩は、もう、――さんとセックスしたんですか」
「……」わたしはデジタル表示されている数字を見た。やがて、試合の開始時刻だ。わたしは目の前に照り輝く、木のフロアを見た。キュッ、キュッとシューズの底が床を痛める。
「わたしは、この前初めてセックスしました」 
「そう」わたしは、黄色のラインをぼんやり見ながら、ある感触、ある匂い、ある話し声を想像した。「実際に」ある話し声は向こう側から聞こえている。
「試合、楽しみですね」
「そうかな」わたしはパイプ椅子に座って、ジャージの前を重ねた。かどちょんがフロアに立っている。
「たくさん点入れますよ。三奈先輩に負けないくらい」
「わたしは……」わたしは――負けるかもしれない。ゼッケン姿のかどちょんを見ると、そう思った。椅子に座りながら、バスケットコートを見ると、円と四角のライン、頭上のゴールリングは手の届かない真上にあった。固い、明確に宙に浮いている、その輪っかを見ていると、両手を拡げて――かどちょんがそこにボールを入れる姿が目に浮かんだ。

「ニカイに行くの?」
 わたしが、床に座って石を並べて遊んでいると、カツミは目を輝かせてこちらを向いていた。
「そう、今みんな上に集まっているからさ」
「ふたりで?」
「大丈夫だよ。おれ、もう何回も行ったし」
 灰がかかった、火の消えた囲炉裏の前に座りながら、わたしは戸口に立っているカツミを見た。カツミは真新しい石槍を片手に持ち、蔓の地面に突き立てていた。まだ、たいして行ってないくせに――わたしはカツミの持っている石槍の、つるつるとしている細い柄を見た。
「おんなは行っちゃいけないんだよ。危ないから」

「これは、もうダメだ」

 わたしとカツミは、ゴカイから非常階段の樹を降りて行った。うねる幹からぴょこぴょこ出ている葉っぱを、雨粒が跳ねるように落ちていった。頭にも、ときどき上から滴が落ちる。わたしは、カツミが石槍を持ったまま、おずおずと木の斜面を降りて行くのを眺めていた。ただでさえ濡れて滑りやすいところを、慣れない石槍を持って降りていく。カツミはびくびくした顔で、なかなか進まない。わたしは平らなところのへりに立ち止まったまま、周りを見た。灰色の空のなか、数々の水滴が上から下まで、色々のところを経過して落ちてゆく。筒のように、わたしの立っている周りを、水が流れて行っている。
「おーい、早く来いよ。来られる?」
 カツミが、階段の下でこちらを見上げていた。汗をかきながら誇らしげに、少し意地悪そうに、わたしを見ている。わたしはさっさとしゃがんで、幹を伝い、するすると樹の斜面を降りて行った。

「いかん。放っておいたら、死んでしまうよ」
「腐ってしまう。宜しいですか、トジサマ」

 わたしとカツミは、2階の、非常階段のふちに立って、足元を覗いていた。上から7本、平行に降りていた坂が、ここで途切れている。一歩先には、底の知れない暗黒が広がっていた。非常階段に絡みつくように伸びていた樹が、わたしたちの立っている断絶したへりから先は、真っ直ぐに下に下りている。深淵へ――ずっと下りて行けば、終わりが在るのだろうか。
 わたしとカツミは、そこから引き返し、樹と廊下の境目を越えた。部屋の並ぶ2階の廊下を、左の方へと歩いて行った。
 廊下の、一番端にある部屋で、カツミと一緒に奥に座った。ぽっかり空いたベランダから、外の方を眺めたけれど、深い闇の中間に、黒い筋が幾本か、朧気に見えるだけだった。木立の影だろうか、何も無い空間に、うっすら線が引かれているだけのように見えた。わたしたちは、床に並んで座っていた。静かだなと思ったとき、わたしは雨の音がしていないことに気付いた。無音の中、前の戸に目を遣りながら、背後に在るベランダへ耳を向けた。わたしは、上から樹を降りて、平らな廊下をここまで歩いて来たと思っていた。でもそれは、錯覚だったのかもしれない。わたしの居る部屋の周りは、方向も無い、無窮の闇で、上に居たときにしていると思った雨の音は――今になってみると、わたしの頭の中の、壁の向こうから聞こえていたように思える。それは、実際には無かったこと、だったのかもしれない。わたしは、ひとり、部屋の床に座っていた。

「仕方あるまい。これは必要な事なのかも知れぬ。向こう側から、そうさせられたのだろう」
 ――必要な事?
 ――向こう側?
「――これで、この子も繋がるだろう」
 ――繋がる?

 灰色の根が、床に錯綜としている。どこも皮がぼろぼろに剥けて、白い粉が吹き出している。地面にくっついているオイイを初めて見た。廊下からこのウロまで固い灰色で、気分の塞ぐような曇空を、逆さにして地面にしたみたいだ。わたしは、カツミの持って来てくれた赤い実を食べていた。二人でこうして遊ぶのは、とても久しぶりだった。
「もう、狩りは慣れた?」わたしは、すぐ隣で落ち着きなく、石槍を玩んでいるカツミに話した。
「慣れた、大体さ、みんな大げさに言うけど、簡単なんだよ、あんなの、追いかけて、待ち伏せして、かごに入れるだけなんだから」
「そうなんだ」
 カツミは槍を逆さにしたり、引っくり返したりしている。わたしは赤い実も食べ終わり、ぼんやり雨の音を聞いていた。
「――は、どうなんだよ」
「なにが?」カツミの顔を見ると、カツミは目も合わせないで、床を見ている。
「サのこと――その、まだ聞けないのか、オツゲ」
「ああ……」サノカタが死んでから、何日経っただろうか。ママが死んでからは、もう、どのくらいだろう。ママの時の方が何百日も前のはずだけれど、その後の様々な日は、間に入らずに次々と後ろに並んでいるような気がする。わたしは灰色のウロの中を眺めていた。何も無い場所――変な所だなと思った。
「なんにも聞こえない。『声』なんて。サになれるのかしら」
「いつも何してるんだよ」
「上のオクジョウを掃除して、下のゴカイも掃除してる。それだけ。最初はトジサマと一緒にやっていたけれど、今はひとりで」
「ふうん、もっと、なんか特別な事しないの」
「しない」
「ふうん」
「これで、オツゲが聞けるようになるのかしら」
「……でもさ、前のサノカタだって、オツゲを聞いてたけれど、本当に『声』なんか聞いているのか、なんて、父ちゃん言ってたぞ、でも大したことも言わないから、まあ、それでも困らんって」カツミは、ずっと下を向いたまま、床のあちこちを見ている。でも、不思議な事に、こちらの方は一回も見ない。変だな、とカツミの顔を見ながら思った。
「どうなのかな。本当は、そうだったのかもね」
「別にサンナサンのことを聞かなくても、食べ物は取れるし、水も湧いてる、大昔は違ってたみたいだけど、今は全然困らないじゃないか」
「結婚は出来なくなるけれどね」
 サは結婚もしなければ、子供も産まない――そういう決まりがあるというのは、昔から誰となく聞いていた。小さいころで自分には関係の無い事だったから、その決まりが、ただ不思議な、特別な事のように思えた。それが急に自分の事となって、いや――こうしている今も、実は変わっていない気がする。結婚する、出産する――それがどういうことなのか、よく分からなかった。それが出来ないということも――浮雲に触れるような気持がする。残念なのだろうか。悲しいこと、なのだろうか。
 灰色の床の上で、ジメジメとした壁を見ながら、ふいに静かだなと思った。隣を見ると、カツミは床の一点を見つめていた。口を結んで、黙っている。石槍を持って、床にも置かず、握りしめている。ちらりと目を見ると、何だか怒っているような感じがした。変だな、と思ったけれど、黙って前を向いていると、急に――カツミが言った。
「俺は、外に出たいんだ」
 わたしはジメジメとした壁から目を離した。横を振り向くと、カツミは前を見据えていた。灰白い床の、オイイの一部分を刺すように見ている。
「そとって?」
「このマンションの外だよ。ここから出て。青い森を抜けて。ここから見えないくらい、ずっと。先の方へ行きたい」
 カツミはわたしの目を見て、我慢できない、というように話した。右手に持っている槍が、宙をかき混ぜるように動いていた。二回、三回。言い終わると、槍がぴたっと止まって、カツミはまた前を向いてしまった。じっと、床を見つめている。
「でも――どうやって行くの。マンションから落っこちたら、死んじゃうんだよ。出られないでしょう?」
 わたしはママが死んだときの、ママの身体を、皆がゴカイの樹から落としていた光景を思い出した。
「それを――だからずっと、いま考えているんだ」
 微かに、首を動かして、カツミの視線は離れたところに向いた。わたしは床のオイイに目をやった。今朝、上から見た、森の眺めが思い出された。空の端まで、ずっと広がっている森。カツミは、そこに行きたいらしい。そんなの今初めて聞いた。生まれた時から、森はわたしたちの周りに在った。今までも――多分これからも、変わらないだろう。わたしは、ただ、眺めながら暮らしてきた。「そこに行く?」カツミの言っていることが、よく分からなかった。そこは――わたしには、行くところではないように思える。眠る前に夜空を眺め、起きた後は森を眺める。「外に出る?」「森をゆく?」――わたしには、分からない。目の前には灰色の根が生えている。久しぶりに会ったカツミが――何だか怖い。
「――は、どうなんだよ」
「なにが?」わたしはカツミの視線を感じた。
「ここに居て、サになってもいいのか」
「……分からない」

「それでは――始めます」
 ――何かが、焦げるにおいがする。

 わたしとカツミは、ニカイの、一番端のウロから出た。カツミが少し後ろに居て、わたしは、足早に廊下を歩いていた。カツミは、もう少し、わたしと話をしたかったのかもしれない。わたしは先に、廊下の角を曲がった。角を曲がった所には、おおきなあかいものがいた。

「腕を切り落とします」
 ――甘いにおいがする。
 ――カツミは、ウロを出ていった。どこに行ったのだろう。
 ――もう、カツミは、わたしたちは、そとに出られないのだろうか。
 ――わたしも、本当は出たかったのだ。そとに。カツミと一緒に。でも。
 ――これから先、二度と、カツミは「外に出たい」とは言わなくなる。それが見える。
 ――いろんなものが見える。
 ――甘いにおいがする。

 甘いにおいがする。ゆっくり目を開けると、緑の蔓が目の前に見えた。床に、横になっているらしい。身体に薄い毛布が掛っている。草の匂いに、甘い薫りが混じっていた。セレンの嗅ぐ、煙の匂いだろう。部屋に風の流れる音がする。わたしは身体を起こした。
「寝てた?」
 わたしが言うと、ベランダの傍で煙を吸っているセレンは、こちらを向いた。
「ほんの少し」
「いつの間にか、うとうとしてたら――」
 起きようかと、床の蔓に手のひらを置くと、セレンは椅子の上で、身体をこちらに向けた。
「もう少し休んでなさいな。疲れたでしょう」
 たしかに、まだ身体はだるい気がする。わたしは膝の上の毛布に手をやった。
「寝てなさい」
 セレンはそう言うと、前を向いて座り直した。わたしは横になって、毛布のなかに入った。身体は重いけれど、毛布の暖かさの中で、その重みは心地よかった。外から――爽やかな風が通り抜けていった。セレンは窓の傍に椅子を置いて、わたしの持ってきた漫画を読んでいる。青空と緑の森を背景にして。わたしに絵が描ければ、それを、そのままキャンバスの中に移せるのだけれど。椅子――彼女――森――空――窓。わたしは寝返りをうって、反対側を見た。床の上の蔓に、大きな皿が置かれている。そこには、一杯に花が盛られていた。桃色のような、赤紫のような、ランプのような、花だ。今のわたしには、その花の名前は分からない。でも――いつかのわたしは、庭で、木に咲いているその花を見ただろう。また――いつかのわたしは、図鑑に載っている、その花の名前を知ることになる。他にも――公園で、山里で、住宅地の路地で、web上で、その花を見る。それぞれ、様々に。わたしは、またうつらうつらとし始めた。目の前では花の色が霞んで、他の色と交じり始めていった。

 いよいよわたし達は、控室のような詰所を出て、蔓草の蔓延る廊下を歩いて行った。廊下の中で二列になり、先頭はわたしの知らないオが歩いた。そこから何人かを挟み、わたしのすぐ前にはオーキナが居た。その隣にカツミが居て、彼の後ろ――わたしの隣には、セレンが歩いていた。
 メが、ましてやサノカタがニカイに来るなんて、前代未聞だ――と、出る直前で詰所で騒ぎがあった。怒りと反対意見でウロは揺れ、蔦も剥がれんばかりだったが、それがオツゲだ、とセレンは言った。彼らはしんと鎮まった――が、それでも「懐疑」は間をうねっていた。誰かがぼそりと、直接サンナサンに聞けばいい、そこに居るんだから、と呟いた。わたしはそれを聞いて、セレンも来たほうがいいと答えた。彼らはぴたりと止んだ。
 後から考えても、セレンが来たほうがいいかどうか、わたしには判断が付かないことだった。ただ、わたしには何となく、「その場」に「彼女が居る」姿が思い浮かんだ。ニカイにはセレンが居るような気がする。ただ何となく、ぼんやりと見えるものに従って、わたしは彼らに来たほうがいいと答えた。
「雨が強くなって来ましたな」
 目の前の廊下に焦点を合わせると、オーキナは左に広がる空を見ながら歩いていた。
「たしかに」
 確かに、先程よりも雨音が強くなっていた。空も黒みが増している。
「ナガアメは段々と、いつの間にか止みますが――少し、珍しいですな」
「……」わたしは歩きながら、塀の外を眺めた。温度の無い風が、眼下の森を吹き、払っていた。空では、黒雲が流れている。自身が意思を持ち、目的地に向かって足を速めているような雲を、わたしは塀の内側から眺めていた。

 わたしたちは、廊下と、階段の樹の境目を跨ぎ、今度はそこを歩き始めた。非常階段の樹は、幅が狭く、一人ずつしか通れない。わたしたちは一列縦隊になり、樹の上を通って行った。濡れた葉に濡れた蔓、濡れた枝の交うなかを進んで行く。わたしは、雨中の行軍というイメージを、頭のなかに浮かべながら歩いていた。多分、そんなものを、どこかで見たのだろう。漫画か映画か、何かの創作で。わたしたちは、暗い茂みの中を一列になって進んでいた。着ている毛皮はすぐに濡れ始めた。雨は直接に降り落ちないが、周りの蔓草や葉には、常に水が伝っていた。いつかそこに、「わたしたち」も組み込まれている。わたしは一人、行進していた。辺りは非常に暗く、非常に静かだった。雨は降っている。行進は続いている。わたしの先にも――後にも、頭二つも低い人たちが、ずっと並んでいる。いつの間にか、わたしは――自分だけが終わりも無く、始まりも無い場所を行進していることに気付いた。辺りは限りなく静かで、わたしは――独りだった。

 わたしは、廊下との境目を跨ぎ、非常階段に降りた。津々とした空間に、コン……と鉄骨の音が響いた。雨はますます強くなっていた。黒雲が空に満ち、風は煽るように吹いた。わたしは、平らに渡されている鉄の通路の上をゆき、階段を降りて行った。白いペンキのかかった鉄の、滑り止めの溝は十字に広がっている。溜まった煤煙の上には、雫が透明な池を作っていた。中空の、鉄骨の狭間からは雨だれが落ちつづけている。手すりや細長い柵に流れ、階上の水抜き孔からは、下まで繋がって、透明なコードのように水が垂れていた。ひとつ、ひとつ、わたしは階段を降りて行った。階の数字が減るほどに、ドアの並ぶ廊下は暗くなっていった。5階を通り過ぎたころ、空は閉され、見えなくなった。ただ暗い中に雫が落ち続け、水が流れている。コン…コン…コン…コン……わたしは非常階段を降りて行った。暗闇の中の、柵、踏板、廊下、水が滴り落ちている。非常階段を包む闇は、徐々に深くなっていった。だんだんと、階段は薄らぎ、やがて見えなくなった。わたしの身体も消えている。暗闇の非常階段には、ただ雫が落ち続けている――永遠に。

 2階まで降りると、わたしは廊下を歩いて行った。昼も夜もない、暗いコンクリートの廊下を進んでいる。右側には、ドアが同じように続いている。磨り硝子の小窓も、換気扇も、同じものが、同じ間隔で廊下に並んでいる。それらは、実際には開かない、嵌め殺しの贋物に見えた。わたしは立ち止まり、ドアの一つを開こうと試した。扉は「そのまま」だった。揺れもせず、音もしなかった。ドアノブは固定されていた。右にも左にも、回らなかった。インターホンのボタンすら動かなかった。わたしは諦めて、また暗い廊下を歩き始めた。右側には、ドアが続いている。換気扇も窓も。左には――コンクリートの塀の外には、黄昏が広がっていた。わたしはエレベーターの脇の通路を曲がった。廊下の、中途の角を折れると、正面に外の景色を臨んだ。塀の外は、雲も、光も、停止していた。通路を曲がると、また、右側にはドアが並び始めた。換気扇も窓も。左には――コンクリートの塀の外には、黄昏が広がっていた。建物の外に、凍った夕暮れが見える。わたしは、ドアの並ぶ廊下を歩き続けた。右側には、ドアが同じように続いている。磨り硝子の小窓も、換気扇も、同じものが、同じ間隔で廊下に並んでいる。わたしは立ち止まり、ドアの一つを動かそうと試した。扉は停止していた。インターホンのボタンですら、停まっている。わたしは諦めて、また暗い廊下を歩き始めた。右側には、ドアが続いている。換気扇も窓も。左には――コンクリートの塀の外には、黄昏が広がっていた。建物の外に、凍った夕暮れが見える。わたしは廊下を歩いて行った。塀の中を進んでいった――が、やがて足を止めた。そして、片腕を地面に付くと――廊下の中ほどに座りこんだ。

 死んだ根のような灰色のオイイを踏みながら、わたしは廊下を歩いて行った。壁には、細く、黒い根が、ひび割れのように張り、ぽっかりと黒い洞穴が、先まで等間隔に並んでいる。この、どのウロにも、ミヨウヤは居ない。おそらく、この洞穴の並びは、ウロの入り口ですら無い。「ドアの後ろに、部屋が在るとは限らない」入ったら最後、もう、この廊下には戻れない。
 わたしは、ゆっくり、灰色の根の廊下を歩き続けた。まぼろしの小さい兵隊は、もう居なくなっている。幾つも、黒い穴の前を横切った。廊下の先は見えない。「でも、後ろを振り向いてもいけない」そのとき、本当に、この廊下は岸無き橋になる。わたしは歩き続けた。長い時間。弱気になり、途中の穴に入ってみようかと、思わなかった訳ではない。「でも、途中の穴に、ミヨウヤが居ないことは分かっている」わたしは歩き続けた。一日、十日、十年、百年。歩き続けた。そして、やっと――わたしは、中間点、エレベーターの木まで辿り着いた。木を見ると、赤い流血が付着していた。わたしは廊下を曲がり、中途の角に出た。そのとき、塀の外の景色を正面に臨んだ。マンションの外側には赤い飛沫が散っていた。ガラスの仕切りでもあるかのように、空に、覆うように血が擦られている。わたしは廊下の、灰白いオイイを見た。がさがさとした根に、所々、赤く点々としている。先の方に行くに連れて、赤い飛沫は増えていた。わたしは、ふと戻ろうかと思って、止まった。「急ごう、やっとその時が来たんだ」わたしは、また足を動かした。血の付いた灰色の廊下を歩く。

 わたしは、もう歩けない。

 わたしは、急ぎ足に廊下を歩いて行った。駆けて行った。逆剝け、かさつき立っている白いオイイは、徐々に真っ赤に染まっていった。もう走るしかなかった。中途の角からの、一日、十日、十年、百年――速度を落とせば、廊下がさらに延びて行く気がした。廊下の先の、未だ見えない壁の向こうで、真っ赤な夕日がどんどん地面に落ちてゆき、ビルの谷間の、誰かが住む街の下に吸い込まれて行っているように思える。わたしは走りに走った。幾星霜、幾星霜。それでも――辿り着けなかった。時間は問題では無いのだ。いつまで経っても、辿り着けない、突き当たりの部屋に。「誰か……」わたしは走り続けた。

 止まった黄昏のなかで、無限に続く廊下のなかを歩くのに、もう、わたしは疲れた。淡い黄金色のような、涼しい薄紫色のような影に、マンションの廊下は包まれていた。わたしは、地べたにべったりと座りながら、どこまでも続く塀と、何かの管、ドアと廊下を眺めていた。この場所を取り囲んでいるのは、懐かしい死の陰。ずっと、この景色を眺められるのは、とても幸せな事なのかもしれない。
 穏やかで、満ち足りた瞬間のなかに永住する。ずっと座っていると、ひんやりとした感覚も薄れてきた。永遠に続く景色も変わらない。そのうちに、自分がゆっくりと回っているような、逆さになってゆくような感じがした。わたしは目を瞑って、自分が、辺りがくるくると廻っていくのを感じた。
「ゲームオーバー?」
 そうかも知れない。暗い中を放り出されたまま、漂っていると――わたしは、はっと目を開けた。声が聞こえた?
 廊下の、わたしの脇の壁ぎわに、いつの間にか誰かが立っていた。その顔は、強い黄昏の影のなかで見えない。でも、さっきしたのは、女の人の声だ。
「笛を吹いても良いのだけれど」
 そのひとは、にこりと微笑んだ。姿が見えなくても、それが分かる。わたしは言った。
「誰?」
「前に言ったわ」
 わたしは考えた。
「聞きそびれたみたい」
「なら、しょうがないわね」
 彼女は、自分の名前を言う気は無さそうだった。でも、わたしは知りたかった。この、無限に続くマンションの廊下の中では、それはぜひとも知りたいことだった。
「名前は?」
 わたしは言った。そうすると、彼女は言った。
「あなたの名前は?」
「……」答えられない。そんなことを知っていれば、そもそも、こんなところには居ない気がする。
「わたしが、付けてあげましょうか」
 彼女はそう言って、少し考えた。
「橋姫」
「……」
「ルビーチューズデイ」
「……」
「一姫二太郎三なすび」
「……」そんな名前では、もう本当にずっと、ここに居る気がする。
「気に入らない?」
「うん」
 わたしがそう言うと、鼻に少しずつ、甘い匂いがしてきた。
「なら、もうすこし先に行くしかないわね。どこかの部屋に、あなたの名前が転がってるかもしれない」
 微かだけれど、確かに甘い匂いが漂っている。どこかの部屋で、洗濯でもしているのだろうか。花の匂いにも思えるし、焼き上がったパンの匂いにも感じる。
「どの部屋でも開けることが出来る、魔法の鍵を渡しておくわ」
 隣に居た誰かはそう言って、わたしの上着のポケットに手を入れた。わたしはポケットに左手を突っ込んだ。固い、冷たい、鉄の鍵だ。
「マスターキー?」
「ずいぶん現実的になっちゃって、だんだん可愛げが無くなっていくわね」
 わたしは、彼女を見上げた。わたしとそのひとの間に、涼しい風が吹いた。彼女は言った。
「そのマスターキー、どの部屋でも開けられるけれど、気を付けて。いつもあなたは、すぐ失くすんだから」
「どの部屋が正解なの」
「正解なんて無い」
「……」
「ドアを開けた後に、名前が付けられる」
 わたしは、今まで過ぎてきた、ドアの並びの方を振り返った。前の廊下は、向こうの強烈な西日を浴びて、ドアノブ、塀に、非常階段の影が、こちらに向かって鮮やかに伸びていた。そして、影は微かに、少しずつ廊下の中を動いていた。
「でも、向こうは大変みたいよ」
 わたしがまた前を振り向くと、隣に居た誰かも、夕日を見つめていた。目を細めて、わたしの後ろの、遠くの方を眺めているのが分かる。彼女の立っているところにちょうど、わたしの影が重なっている。
「だからあなたも、一番大変そうなドアを探して、開けたら好いんじゃないかしら」
 そう言うと、彼女はまた、視線をわたしに落とした。
「いちばん奥の扉に行けってこと?」
 わたしがそう言ったとたん、彼女はゆっくりと歩き出した。夕日の方に向かい、わたしの脇をすれ違った。わたしが振り返ると、彼女は止まって、背中を向けたまま言った。
「どこでも同じよ。正解なんて無い。あなたは戻ってもいいし、其処らへんのドアに入ってもいい。別に変わらないわ」
「……」
「名前が知りたい?」
「わたしの?貴女の?」
 彼女は黙ってしまった。わたしは慌てて言った。
「知りたいわ」
 わたしがそう言うと、彼女はまた歩き出した。廊下を、夕日の方に向かって。
「待って!」
 彼女は立ち止まった。
「行っちゃうの?」
「わたしの姿が見えなくなったら、すぐに振り返って、前を向いた方がいいわ。わたしが去っても、ずっと階段を見ていると、こんどは違う者が降りて来るわよ」
「違う者?」
「違う者――同じ者」
「……」
「名前が知りたい?」
「知りたいわ」
「なら、もう行きなさい。がんばってね、さようなら」
 そう言って彼女は、わたしに背中を向けたまま、廊下を戻って行った。塀の途切れる、非常階段の降り口の前で止まると、横を向いて、さかいを通り過ぎた。そのとき――彼女の横顔が見えた。わたしは、はっとした。
 彼女は静かに降り立ち、鉄の階段を上って行った。わたしは、それをじっと眺めている。空のなかを、柱に、柵に、踏板に、影が、錯綜とし、非常階段の中に在る夕空と彼女は、周りからほんの少し、ずれていた。とぎれとぎれになった彼女の姿が、踏み板の上を進んでゆく。少しずつ昇って、やがて見えなくなった。
 彼女が去った後も、わたしは非常階段から目を逸らすことが出来なかった。空は日も沈み、茜色から藤色へと変わってゆき、余光も少しずつ薄れてきていた。目を背けて、前に身体を振り向けなければならない。でも、それは大変な事だった。わたしが今まで、其処を歩いてきた廊下と、あのひとが、其処を去ってしまった非常階段は、段々と薄暗くなる中で、わたしに何かを語りかけている。耳を塞ぎ、視線を切って、親しみに背を向けて行くのは、とても難しかった。わたしの身体は動かない。
 やがて、コツ…コツ…と、上から物音が聞こえてきた。どこかの廊下を、誰かが歩いている。階段を見ながら耳を傾けていると、その音はコン…コン…と、鉄の踏板を降りる音に変わった。音は少しずつ、近づいている。誰かがここまで下りて来るらしい。「違う者が来るわよ」彼女はそう言っていた。違う者が「同じ者が」来る。「名前を知りたければ」先に行くしかない。わたしは前を、振り向いた。

 目の前には――なぜ今まで気付かなかったのだろう――エレベーターに乗る一隅があった。エレベーターの脇の角に、ちょうどわたしは立っている。正面は、今いる廊下から一段上がった、殆ど正方形の箇所。向かって左側の壁にエレベーターの扉があって、右側には、何号室かの部屋のドアがある。ただ、奇妙な事に、わたしの記憶では在るはずの、向かいの、階段へ行く間口は無い。以前からそうだったかのように、そこは壁になっている。上には蛍光灯の明かりが点いていた。辺りは暗くなっているのに、わたしの目の前の、その一隅だけは、ぼんやり白んでいる。
 コン…コン…と、音は絶え間なく近付いていた。もう、一つ上か、二つ上の階に居るだろう。わたしは、エレベーターに乗るか迷った。段差を、一歩敷居を跨ぎ、ボタンを押す。ランプを見ると、エレベーターは丁度この階に止まっているらしい。乗れば、すぐ上に行ける。わたしは、あのひとの顔を思い浮かべた。いつもは見ることの出来ない彼女の顔。エレベーターに乗れば、もう一度会えるかもしれない。それに――わたしの立っている廊下の角は、左に折れている。そちらを行けば、エレベーターの周りを巡って東側のドアの並びに出るはずだ。でも、そっちは――明かりの無い暗がりだ。わたしは、目の前の、段差の付いたスペースを再び見た。「どの部屋でも開けることが出来る魔法の鍵」上着のポケットに手を突っ込んで、それを握る。コン…コン…コン…コン…ぼんやりと、右側にあるドアを眺める。鉄の扉には白いペンキが塗ってある。鍵穴の下のドアノブ。わたしは――はっとした。気付いた瞬間、肉のずり落ちる寒気を感じた。即、通路を左に曲がり、暗闇に向けて走った。消えた階段、白い扉、エレベーター、見える――見えるだけだ。わたしの見たドアの、ドアノブには影が無い。
 わたしが通路を曲がって走りだすと、先程までコン…コン…と歩いていた音は、けたたましい駆け足に変わった。わたしは中途の角に出た。塀の外に、ひんやりとした空が見える。真っ暗な空――虚空が覗いている。そこを曲がると、東の扉の並びに出た。暗いドアの並ぶ廊下には、幾つも幾つも子供の死体が転がっていた。追跡者の足音は、非常階段から、わたしの居る階に移った。暗い中を、無数の亡骸を避けながら進むのは大変だった。どのドアを開けようか――ここでもいいし、そこでもいい。今は、どのドアでも開けられる。でも「あなたも、一番大変そうなドアを開けたら好いんじゃないかしら。あえて」わたしは小さな死体を踏みつけ、腕や頭を蹴散らし、暗闇を走った。途中にあるドアを全部過ぎ、突き当りの塀の前まで来た。わたしはポケットから鍵を出し、鍵穴に突っ込んだ。廊下の角から、影が現れる。腕をひねるとデッドボルトの開く音がした。ドアの隙間から、甘い匂いが漂っている。わたしは、行止りの部屋の扉を開けた。
 ドアノブを掴みながら急いで扉を閉め、すぐに鍵を掛けた。間髪入らず、ドアノブはグルグルと動き出した。ガチャガチャガチャドンドン、ガチャガチャガチャドンドン、わたしは、向こうと繋がって回るドアノブと、前後に激しく震える鉄のドアを見た。ガチャガチャガチャドンドンドンドン、やがて、何の前触れもなく音が止んだ。
 わたしは、扉の前で耳を澄ませた。四角い溝の付いた鉄のドアは、死んだように止まっている。向こう側では、何の物音も聞こえなかった。わたしは右側のドアノブに目を落とした。つやの無いスチールのドアノブは、今にも動き出すかもしれないという期待に反し、まったく静止していた。しんとしている。ドアの向こうに何も無いかのように。目線を上げると、扉には小さな覗き穴があった。そこを覗けば、向こう側がどうなっているかが分かる。頭をかかげて、首を伸ばした時――ふと、また鼻に甘い匂いがした。この部屋の匂いだ。そのとき、後ろから声がした。
「お姉ちゃん、何してるの」
 わたしはドアの前で振り返った。

 部屋の中は真っ暗だった。辺りは何も見えない。わたしは耳を、ボールを投げるように澄ませた。水を浸していくように、暗闇を探る。甘い匂いが漂う。爽やかで、甘い匂いだ。わたしは少しずつ、部屋の奥へと歩き出した。小さな女の子の声だった。ずっと昔に、聞いたことがある。黄色い、朝の日差しのような色の声だった。耳を澄ませても声は聞こえて来ない。部屋には、香りだけが漂っている。わたしは部屋の奥へと進んでいった。少しずつ、暖かくなっていく。今はまだ、春先だ。ストーブでも点けているのだろうか。わたしは部屋の中で立ち止まった。甘い匂いが、ふっと消えたとき、部屋の明かりが点いた。

 臙脂色の絨毯を敷いた部屋に、厚手のカーテンが引かれていた。ぽかぽかと暖かい。大きなストーブが脇に置かれている。ベッドの前には、美しい木の椅子があった。その椅子に、真っ白な裸の、成人の女性が座っていた。
 彼女は、わたしをちらりと見たが、すぐに手元に目を遣った。宝石のような冷たい眼、白い手の、綺麗な指先を見つめている。彼女は手にマニキュアを塗っていた。椅子の傍のサイドテーブルに、ガラスの小瓶が置いてある。やがて、美しい、しなやかな腕を顔の前に伸ばすと、たちまち触れたくなるようなその手を、とっくり眺めた。迸るような赤が、わたしの目の前に浮かぶ。彼女は出来栄えに満足したのか、今度は片足を上げて椅子の上に乗せた。足の指に、マニキュアを塗っていく。彼女は何も着ていない。黒い髪が首を通り、白い肩を包んで、膨らみ切った二つの乳房にかかっている。白い肌、白い足、マニキュアを塗るためにひろがり、成熟した陰唇が露わになっている。彼女は、一つ一つ、順に赤い液を塗っていた。足の指の先を、一本ずつ染まらせている。わたしは椅子の前に立って、それを眺めていた。
「わたしが誰だか聞かないの」
 彼女は、最後の指を塗ろうとするところで、わたしに話しかけた。その瞳と同じ色の声。わたしは何も言わなかった。彼女が最後の指にマニキュアを塗り終えるのを、ただ黙って見ていた。
「わたしが誰か、知りたくはない?」
 彼女は、最後の指を塗り終えた。液で濡れている、自分の爪を眺めている。わたしは何も言わない。
「何という名前だか、知りたくないのかしら」
 彼女は、足を静かに下ろした。顔を見上げ、わたしの方を向いた。わたしは何も言わない。
「つめたい人」
 彼女は椅子から立ち上がった。白い身体に、赤い爪を下げて。わたしは何も言わない。決して、何も話さない。聞かれなくても、わたしには、彼女が誰か分かる。知りすぎるほど、名前も知っている。わたしは何も言わない。わたしは静かに――音も無く目を瞑った。辺りは真っ暗になった。

 わたしの目の前にある闇の中で、彼女はゆっくりと近づいてきた。腕が近付く。胸が近付く。頭が、近付いてくる。でも、わたしは、どれだけ傍に寄ってきても、目を開けるまいと決意した。口が、こちらに動いてくる。彼女はわたしに歯を見せて、笑っているようだ。それでも、目は開けない。鼻が近付いて来た。少しずつ、少しずつ近付いて、わたしの鼻に触れるんじゃないか。段々とカノジョの顔が迫って来る。鼻先が、わたしの鼻と紙一枚の所に来た。
「ここまで来られた人は初めてよ」
 眼前で声が聞こえると、彼女の顔が止まった。目の前を覆うように、熱い物を感じる。わたしは目を開けなかった。腕を下ろして、じっと立ち尽くした。やがて――潮が引くように、彼女はわたしから離れて行った。先の方でぎしりと音が聞こえた。
「目を開けてくれないかしら」
 わたしは、静かに目を開けた。最初と同じように、彼女は椅子に座っている。違うのは、指の先に、赤いマニキュアだけが乾いている。
「ここまで来られた人は初めてよ」
 彼女は言った。低い、地下水のような声で。
「話がしたいのだけれど、ここには椅子は一つしかないの。ベッドも一つだけ」
 彼女はそう言って、サイドテーブルに乗っているワイングラスを手に取った。いつの間にかテーブルには、マニキュアの入った赤い小瓶の代わりに、ワインの注がれたグラスが置いてあった。彼女はグラスの足を持ち、赤い液体を口に流した。唇から、白い首の管に注がれる。彼女は少し飲んで、グラスをテーブルの上に置いた。赤いワインが、海のように揺らいでいる。
「わたしを殺しに来たのでしょう」
 わたしが彼女を見ると、彼女も机の上のワイングラスを見ていた。わたしは頷いた。そして、言った。
「ええ」
「ポケットに入っているそれで、殺すのかしら」
「……」
 わたしは、椅子に座っている彼女の肉体を再び眺めた。ひろがる平原、美しい丘――完全なる自然。わたしは、これから彼女の肉体に穴をあけ、杭を突き立てなければならない。そこには、何の不足も無い。わたしの持っている物を、あえて、加えるのだ。おぞましくも。
「迷いがあるようね」
 彼女は言った。わたしの目を見て。
「それでも、しなければならないとあなたは思っている。わたしは、もう準備できたわ。二十本の指にマニキュアを塗ったのだから」
 彼女は、椅子にゆったりと座りなおした。わたしは一歩進んで、彼女の側に立った。完全な世界を、眼下に見下ろす。白い、杭を突き立てるべきところも。でも――。
「どうしても……あなたを殺さなければいけないの」
 なぜ、完成されたものを壊さなければいけないのか。なんで、わたしがそれをしなければならないのか。わたしは涙を流していた。彼女は言った。
「もう、塗る指は無いのよ。それに、あなたはドアを開けた。それも一番奥の、わたしのドアを開けた。もう先に進むしかない。杭を打ち、肉を割き、血を噴き出させ――殺さなければならない」
 わたしは泣きながらポケットに手を入れた。白い、固い杭を手に掴んだ。腕を頭の上まで振り上げて、目の前に座っている彼女にそれを突き刺した。

 わたしは、オイイの生えたニカイの廊下を歩いて行った。エレベーターの角を曲がり、森の暗がりの下を進んでいった。首のちょん切れたこびとの並ぶ、西の廊下を歩いて行く。
 一番端の、突き当りのウロまで来た。扉の、とがった枝を組んで積み上げた蔽いは、ばらばらになって、廊下に散らばっていた。わたしはウロのなかに入った。
 暗いウロの中には、二人の人影があった。わたしは持っている松明を、真ん中の囲炉裏に差し出した。囲炉裏の薪に火が移り、部屋の中が明るくなった。
 部屋の奥には、「おおきな赤い獣」が横たわって死んでいた。腹に白い杭が刺さっている。杭を伝って、地面に血が溜まっていた。人影の一つはカツミだった。後から来たのだろう。傍に立って、蒼然とした顔をしていた。
 もう一つの人影は、返り血を浴び、全身が真っ赤に染まったわたしだった。着ている毛皮の底まで、血が浸みこんでいる。そのわたしは、自分が殺したそれを眺めていた。セレンは、陰部から大量の血を流し、死んでいた。

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