【小説】第1話 喪失

 姉は言った。膨らんだお腹を撫でながら。
 青葉香澄あおばかすみは病室で、姉の柔らかな表情を見守っていた。

「この子はね、きっと神様から授かったの」
「どういう事?」
「だって私、誰とも体を重ねていないんだもの」

 微笑して瞼を伏せ、腹部を撫でる姉のあかねは、嘘をついているようには見えなかった。
 研究者だった両親の死後、看護師の姉は、一人でずっと香澄を育ててくれた。歳の離れた姉を、いつも香澄は頼りにしていた。長い髪を横で結んで垂らしている姉は、現在臨月だ。もうすぐ子供が生まれる。

 だが、父親が誰なのかは、香澄も聞いていなかった。
 姉は『神様から授かった』と繰り返すばかりだ。それではまるで、聖母のようではないかと、香澄は思う。優しい手つきでお腹を撫でている姉は神々しく見える。同時に嘘をつく性格ではないと、誰よりも知っている香澄は、子供の父親については深く追求できないでいる。

 しかしながら、子供は精子と卵子からなる受精卵から育つというのは、小学校の保健の授業でも習うのだった気がしている。処女懐胎など、あり得ない。

「香澄、この子はね、ひかりという名前にしようと思うの」
「そうなんだ。いい名前だね」
「ええ、とっても。ねぇ、香澄。私に万が一のことがあったら、景をお願いね」

 いつも頼りにしてきた姉が、今回は自分を頼っている。幾ばくか緊張し、香澄は背筋を伸ばして頷いた。実は姉が入院しているのは、出産に備えてという理由だけではない。妊娠高血圧症候群になった姉は、それが重篤化し、現在母子ともに危険だと言われている。

 この虹彩西こうさいにし総合病院に入院して、もう長い。大学三年生の香澄は、暇を見つけては足繁く病室へと通っている。いよいよ明後日が、出産予定日だ。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん。きっと、元気な赤ちゃんが生まれるし、お姉ちゃんだってすぐに元気になるよ」

 元気づけようと香澄は笑顔を浮かべる。そして一人頷いた。

 ――だが。
 出産時に、姉は亡くなった。幸い子供は無事で、その子を香澄は静かに抱いた。乳児は想像以上に小さく、けれど重い。

「景……貴方の名前は、景だよ」

 そう言い聞かせながら、気づくと香澄はポロポロと泣いていた。
 姉がこの子を抱くことなく急逝してしまった事が、どうしようもなく悲しくてならない。ギュッと目を閉じれば、さらに大量の涙が零れた。長い睫毛を震わせて声を出さずに暫く抱いてから、景の頬に自分の頬を当て、香澄はしっかりと目を開いた。

「大丈夫だよ。私が守るからね。お姉ちゃんと約束したんだから。何も心配はいらないよ」

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