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ナウシカ歌舞伎の夜の部と『ナウシカ考』 ラストは二元論だったのか

ナウシカ歌舞伎、尾上さんが骨折する前に昼の部を観て、数日経ってから「夜の部」を鑑賞しました。昼の部のレビューはこちら↓

昼の部は、ユパ・アスベルの本水を使った大立ち回りや、ナウシカの宙乗りなど派手な演出が多かったのだけど、夜の部は一転して「これぞ歌舞伎だな!!」って演出が多くて(すみません言うほど歌舞伎詳しくないです。素人目からして)、個人的にはどちらもめちゃくちゃのめり込んだし、泣いた。

特に夜の部は、クシャナの子守歌のシーンで号泣した。やっぱり昼・夜の部を通してクシャナの存在感はすごすぎた(語彙)

昼の部・夜の部の鑑賞と平行して、原作マンガを読み返したり、赤坂憲雄さんの『ナウシカ考』を読んだりしていたんだけど……。

『ナウシカ考』は、場面が行きつ戻りつするのもあって、読み通すのが結構大変だった……でも、マンガ『風の谷のナウシカ』が「古典として読まれていくだろう」という指摘にはうなずいた。
そして、「現代が抱えている問題と、扱っているテーマが密接にからんでいるからこそ、ナウシカのテーマが浮かび上がってきにくい」という指摘にも納得した。まさに今わたしたちが直面しているテクノロジーとの向き合い方が、もしかしたらナウシカに描かれている科学技術が盛り上がっている時代なのかもしれない……し。

この『ナウシカ考』では、ナウシカが善と悪、光と影、そういった「二元論」を真っ向から否定していくと指摘する。
確かにわたしもそう思う。ナウシカは、闇や穢れも抱える「生命」のことがいとおしくてたまらない人だと思うから。
自己犠牲の精神で突き進む「王蟲」のことがいちばん尊い生き物だと感じているのは、人間がなかなかそう生きられないから。でも、やっぱりそんな〝弱い〟人間のことも丸ごと抱きかかえている。


★★ここから先、歌舞伎の演出に言及してます。ご注意を★★


新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」に話を戻すと、夜の部の演出で、巨神兵オーマと、シュワの墓の主との戦いが、赤と白の獅子たちの群舞で表現されていた。最後の戦いをどんな風に表現するのか、ビーム?幕に映像を投影する?どうするんだろう??と非常に気になっていたので、「こ、この手できたか……!」とただただ驚いて、見入ってしまった。歌舞伎にしかできない表現で、本当に素晴らしいと思った。

でも、これがナウシカが否定する「二元論」につながる演出(オーマ対墓の主)だったのでは、と指摘しているレビュー「ここが惜しいか 歌舞伎ナウシカ」を読んだ。うーーーん……そうかなぁ、と今も腑に落ちないでいる。

赤獅子と白獅子の対決はナウシカの味方「オーマ」とナウシカの敵「墓の主」の対立を強調し、分かりやすい二元論の世界に戻っていってしまうかのようです。墓の主を打ち倒したあとオーマの精もナウシカの腕の中で果て、多くのものを失ったナウシカは必死に力を振り絞って「生きねば!」と叫ぶのですが、流れから言うと「対決」「勝利」「未来への希望」といった晴れがましい印象に流れ、ナウシカの苦渋は薄れました。 

そういう切り取り方をすれば、そう感じるかもしれないけど…。わたしは「よく思いついたなぁ!」って感じの演出だった。確かにラストはからりとしていたけど…。
オーマはナウシカが忌み嫌っていたはずの「世界を滅ぼした火」。それでも虚無を生み出す墓は閉じなければならない。その火を使うしかないということに葛藤はあったはず。そんな事前情報で補っていたから感じなかったのかな~。
オーマと墓の主の演舞は、どちらが押しているとも押されているとも判別がつかない舞いだった。でもその最後には、中央にナウシカが登場してとどめをさしたようにみえた(派手ではなかったけど)。二元論というよりも、墓も、自分たちのように愚かではない「新人類」が誕生するすべも、すべてナウシカが背負って、その手で終わらせたんだ、とわたしは読み取った

もちろん感じ方は人それぞれ。わたしは自身は新作歌舞伎、心から楽しんだ。見てよかった。尾上菊之助さんのけがはとっても残念だったけど、ぜひ再演を心待ちにしたい(ゴージャスすぎて難しいかな…しかしわたしが2日目にフルバージョンを見られたのは僥倖だったんだなぁ…)。

その後、配信されていた『ナウシカ考』の赤坂さんと川上弘美さんの対談がとても興味深かった。

赤坂さんの下記の言葉、メモしておく。

野生と文化、自然と人間という、我々の世界ではかろうじてある境界そのものが、壊れてしまった世界を宮崎さんが描いているということに、途中まで気付かなかったんです。それが大きな問いかけになると思ったのは、森の人について考えていたときですね。彼らは腐海と共存し、それを聖なる世界だとあがめている。けれど、その世界を作り出したのは千年前の「火の七日間」という戦争を引き起こした愚かな人類ですよね。それでも、腐海を聖なる森としてあがめることができるのか。彼らはすごく困るわけです。

『ナウシカ』が提示するのは、「すべてが変えられている」ところからしか、出発できないということ。手付かずの自然をめでるのは楽なんです。でも、愚かな人たちが作った自然であってもそれをめでて、聖なるものとあがめることができるのか、という深い問いが突きつけられていると感じました。

改めて、やっぱり宮崎駿すごいなぁ。あの人の頭の中はどうなってるんだろう……。

そして歌舞伎ともナウシカとも関係ないけど最近とっても響いた駿のインタビュー。「三鷹の森ジブリ美術館」、わたしはすっかりリピーターだけど、毎度毎度違う体験ができてとっても楽しい。

美術品のように値打ちがあると世間が定めてあるものなら、黙って展示しておいて、よかろうが悪かろうがそれでいいんですが、我々のはまったく違いますから。サブカルチャーそのものですから。喜んでもらってこそなんぼのもんだという、そのことだけは踏み外さないようにやりました。だから努力はずいぶんしてきました。
つまんないとしたらつまんないものつくっているから。面白いもの作ればいいんですよ。だけど思うように描けないっていうのは苦しいことです。「苦しい」ならいくらでもありますよ。苦しい、悔しい、頭にきた、自分に腹が立つ、周りの笑っているやつにも腹が立つ(笑)。そういうことでしょ、仕事をやるっていうのは。

「そういうことでしょ、仕事をやるっていうのは」。という一言がぶっ刺さる。
全然レベルが違うけど、自分の足りなさに腹が立つこと、わたしにもある。それが仕事でしょ、その通りだ。あーやっぱり駿、大好きだ。

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