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まことうつし

「カシャ、カシャカシャ」
眠たげな音だ。
すこし重めの、乾いたシャッター音で目覚める。

カメラの「カシャカシャ」は、ウグイスの「ホーホケキョ」のようなものだと、寝ぼけた頭のなかで、ふと思う。
一定の法則的な響きがある。繰り返される。
そして、眠っているひとを起こす。日常である。
でも、微妙に、それぞれ、違う音。

夫は、写真家である。

わたしは「写真家」と称するのがふさわしいと思うけれど、本人の名刺には、写真家ではなく、写真家の意味である「フォトグラファー」でもなく、「フリーカメラマン」という肩書がついている。
実際、本人も、あらゆる場面で、そう名乗る。

夫曰く、その理由は、「だって、おれ、なんでも撮るから」らしい。

かれの論理が、よくわからない。
でも、それ以上の追求はしていないし、これからもたぶんしない。
納得はしないが、それでも一緒にいるのが家族である。

とはいえ、わたしは、かれを、真を写す「まことうつし」の芸術家だと思っている。
でも、かれ自身は、自分を、芸術家というよりは職人だと思っていて、そのアイデンティティのほうが強いらしい。

わたしは、写真について詳しくはないし、カメラのメカニックについてはさらに疎い。
写真家の妻が写真に詳しいとは限らない。

写真の出来不出来というものも、わたしには、未だに、いまいちよくわからない。
作品と作品に、比較はありえないとは思うけれど、わたしが素晴らしい作品だと思っても、「これは没。こっちだよ」と、かれは言い、実際、採用された作品を見せられると、「なるほど、こちらだな」と思う。

でも、かれの撮る写真は、どれもすきだ。
とくに、かれの撮るわたしのポートレートがすき。

初めは、撮られることに抵抗があった。
けれども、いまでは慣れを通りこして、すでに日常であり、楽しんでいる。

わたしは、モデルではない。ただ、身近な被写体であるだけだ。
美人でもない。顔の造りもプロポーションも凡庸であり、年相応に加齢が見え、若々しさも瑞々しさもない。
しかし、そんなわたしを、かれは、美しく撮ってくれる。
わたしの自己肯定感は、体感0.3℃くらい、じわりと上がる。

自分のポートレートが美しい、と自ら言うことは、誤解も語弊もあるだろう。
自惚れと贔屓があることは、認める。

でも、かれの眼と技術が、わたしの隠れた魅力を見出し、引き出していることには、相違ないと思う。
いや、わたしの真の聖性を写しているとさえ思えることがある。

かれの撮るわたしのポートレートには、いつでも、うんざりするほど既知でありながら、驚くほど未知のわたしが写っている。
新しくはないし、懐かしくもない、いまの、ありのままのわたし。
なのに、見たこともない、ほんとうのわたし。

ほかのひとには、こんなふうに見えているのかと、苦笑いすることもある。
それは、録音された自分の声を聴くときの違和感と、すこし似ているかもしれない。

「おはよう」
「おはよう」

まだまだ寒い今朝の、モノクロームのわたしも美しかった。
デジタルカメラだから、かれは、撮ったもののうち気に入ったものは、すぐに見せてくれる。

造形的には、乱れた髪、前夜すこし飲みすぎて浮腫んだ半開きの目、クマと泣きぼくろのある目元、目尻と首のシワ、たぷたぷした二の腕、腕のわりに貧相な乳房の左脇の膨らみを晒した、うつ伏せのわたしである。
手入れを怠った眉と、まだ微睡んでいる黒目が、やけに黒々としている。
右の腕と手首の傷痕は、うっすら、ひんやりと光っている。

でも、美しかった。

無様な姿を隠したいという思いは、わたしにはもはやない。
撮られることにも抵抗はない。

でも、なぜ傷痕を写すのか、いつか訊いたことがある。
その日は、かれが、わたしの傷痕にフォーカスし、何枚も撮っていたから。

「だって、皮膚の滑らかな部分だけを撮っても、奥行きに欠けるでしょ。綺麗だけれど、それは美じゃない」
と、かれは言った。さらに、つづけた。

「傷と傷痕は違うんだよ。傷痕は治っているからね。血を流したけれど、もう止まっている。痛みと癒しの両方が、同時にある。そのまるごとが、美しいと思うんだよ、おれはね」

夫は優しい、と思う。

夫婦であるから、夫の、妻のわたしへの情から、美しく写されるのかもしれない。
かれの写真からは、わたしへの、あたたかなまなざしも感じる。
こんなふうにまなざされているのかと、驚きつつ、安心を覚える。
かれは、だれも、なにも、決して醜くは撮らない、という信頼もある。
同時に、なにもかも見抜かれ、見透かされ、見顕される、という怖さと諦めも、ある。

半裸なのは、昨夜、肌を合わせたまま眠ってしまったからだ。
わたしは、かれのまなざしだけでなく、体温にも安堵する。
高揚というよりも、圧倒的に安堵だ。

でも、昨夜は久しぶりに高揚したのだった。
記憶を辿って、内心照れていた。
ずっと一緒にいて、なんだって夫に照れるのか、とは思うけれど。

「まなちゃんの昨日の言葉には、グッときたよ」と、夫が言った。
「え? わたし、なにか、変なことを言った?」
なにを口走ったのかと、不安になった。

「憶えていないの?」
「なにか言ったかもしれないけれど、なにを言ったかは憶えていない」
「おれが興奮して、『おれのまな』って言って、ギュってしたら、まなちゃん、怒ったじゃない」
「そうだっけ?」
「そうだよ。『わたしはわたしのもの。あなたのものじゃない』って」
そういえば、そういうことを言った気もする。

「でね、『でも、だから、わたしをあなたにあげるとき、すてきなんじゃない』って、まなちゃん、言ったよ」
「あまり憶えていないよ」
「でも、嘘じゃないでしょう?」
「嘘じゃないけれど、興醒めしたんじゃない?」
「驚いたけれどね、でも、グッときた。反省もした。ごめんね。おれの所有物みたいな、そういう意味ではなかったんだけれど、まなちゃんの、そういうところ、おっかないけれど、すきだよ」
「なにそれ。褒めているのか、貶しているのか、わからないよ」

そのとき、思った。
わたしたちは、互いに、おのれを差し出し合って生きているのだ、と。
まなざしも、熱も、声も、偏りも、誤解も、怒りも、傷痕も、まるのまま差し出して。
そこに、美が、真が、介在しないはずがない。

「褒めても、貶してもいないよ。すきなんだよ」
(そうね、存在まるごとね)

「カシャ、カシャカシャ」
また、かれの切るシャッター音がする。
これは、照れ隠しの音。

顔をそむけたけれど、おそらく、わたしの頬も、耳たぶまで紅くなっていたと思う。
モノクロームで良かった。


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