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中国史

60
中国史の連載記事です
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記事一覧

連載中国史60(最終回) 現代の中国

2013年に国家主席に就任した習近平は、かつてのシルクロードを念頭に置いて、海と陸の双方から…

水埜正彦
3か月前
9

連載中国史59 中華人民共和国(4)

天安門事件の後、鄧小平の意を受けた江沢民が党総書記に就任。1993年には国家主席となり、鄧小…

水埜正彦
3か月前
5

連載中国史58 中華人民共和国(3)

毛沢東の死と四人組の失脚によって復活した鄧小平は、改革・開放経済政策を推進し、社会主義市…

水埜正彦
3か月前
4

連載中国史57 中華人民共和国(2)

1966年に始まった文化大革命は、大躍進政策の失敗以後に実権を握った劉少奇や鄧小平などの修正…

水埜正彦
4か月前
5

連載中国史56 中華人民共和国(1)

1949年、国共内戦に勝利した毛沢東は、首都北京において中華人民共和国の成立を宣言した。国家…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史55 中華民国(5)

1937年7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、なし崩し的に中国全土に拡大し泥沼化した。日…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史54 中華民国(4)

1931年9月、関東軍は奉天郊外の柳条湖で、満鉄の線路を自ら爆破し、これを中国軍の仕業として軍事侵攻を開始した。いわゆる満州事変である。関東軍は半年足らずで満州全域を占領。翌年には清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として満州国の建国を宣言した。満州国は五族協和をスローガンに掲げたが、実態は関東軍と日本の官僚からなる傀儡国家であった。これに対し、中国各地で抗日運動が激化したが、国民党政府の蒋介石は共産党との内戦を優先し、日本との直接対決を避けた。満州事変と同年には江西省瑞金に毛沢

連載中国史53 中華民国(3)

20世紀前半の中国情勢は混迷を極めたが、日本の対中国政策も同様に混乱に満ちたものだった。上…

水埜正彦
4か月前
6

連載中国史52 中華民国(2)

袁世凱の死後、各地の軍閥による主導権争いは激しさを増した。抗争の中心となったのは、馮国章…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史51 中華民国(1)

辛亥革命のリーダーとなった孫文は、1894年にハワイで興中会を結成して以来、十年以上にわたっ…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史50 清(9)

1904年、朝鮮半島と満州の権益を巡って対立を深めていた日露両国は、旅順港に停泊していたロシ…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史49 清(8)

1884年、インドシナ半島への勢力拡大を狙うフランスと、ベトナムの宗主権を主張する清との間で…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史48 清(7)

太平天国の乱の最中、1856年に広州に停泊していたアヘン密輸船アロー号船員の逮捕と、同年に起…

水埜正彦
4か月前
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連載中国史47 清(6)

アヘン戦争開戦決議に至る英国議会の採決結果はわずか九票差であったという。反対派のひとりであり、後に首相となるグラッドストンは、開戦を「英国の永久の恥さらしとなるだろう」と評している。それほど、アヘン戦争は大義なき戦争であったのだ。密輸品の麻薬を売りつけておいて拒まれれば軍艦と大砲で応じるというのは近代国家にあるまじき蛮行だといえるが、そもそも近代国家とは、多かれ少なかれ、そうした焦臭い生い立ちを持っているものなのかもしれない。しかも、実際に前線で戦った兵士は、植民地であったイ