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連載日本史㊱ 平城京(5)

大宝律令制定から二十年、奈良時代初期には早くも土地政策の矛盾が露呈していた。公地公民の原則に基づく班田収授法は安定した定住人口という前提があってはじめて成り立つシステムだ。ところが予想以上に人口が増加し、しかも重税にあえぐ農民の間で逃亡が続出した。逃亡民は見つけ次第連れ戻すのが基本方針ではあったが、あまりの多さに対応が追いつかず、実際には逃亡先で「浮浪」として課役を負担させることが多かったという。逃げた農民の耕作していた田畑は荒れる。結果として、人口に見合うだけの口分田を確保するのが困難になったのである。

奈良時代の土地政策の変遷(「山川ビジュアル版日本史図録」より)

722年、長屋王政権は良田百万町歩開墾計画を発表した。農民に食料や道具を支給して逃亡を防ぐとともに開墾を促す、という計画であったが効果はなかった。そこで翌年、三世一身法が制定される。灌漑施設を新設して開墾した者には子孫三代にわたる土地の私有、旧来の灌漑施設を利用して開墾した者には一代限りでの土地の私有を認めたのだ。公地公民原則の部分的修正である。これは短期的には一定の効果があったものの、しばらく経つとまた逃亡と耕作放棄が繰り返されるようになった。

743年、橘諸兄政権はとうとう墾田永年私財法を制定し、開墾した耕作地の永久私有を許可した。公地公民原則の実質的な崩壊である。開墾された墾田は輸租田、すなわち納税義務を負う土地とされた。政府は原則を放棄して税収を確保した。名を捨てて実を取ったわけだ。貴族や寺院は、国司や郡司の協力を得て開墾を進め、私有地を拡大していった。荘園の誕生である。

官民あげての荘園ブームの過熱に対して、765年、道鏡政権は加墾禁止令を発布したが、圧倒的に不評であり、道鏡の失脚後には再び開墾と永年私有が許可された。いったん堰を切って溢れ出した人々の土地に対する欲望は、もはや後戻りを許さないレベルにまで達していたのだ。

初期荘園のイメージ(tamagawa.ac.jpより)

初期荘園(墾田地系荘園)の耕作労働力として動員されたのは周辺の農民や浮浪民であった。彼らは荘園領主である貴族や寺社に二割の賃租を収めた。下層農民にしてみれば税の納入先が国家から荘園領主に代わっただけで負担はさほど変わっていないように見えるし、むしろ国家の統制の及ばないところで農民を酷使する「ブラック荘園」も結構あったと思われるのだが、強制的に貸し付けられる口分田よりも自分で選んで働く荘園の方がましだということなのだろうか。実際には生活苦にあえぐ下層農民たちには選択の余地などほとんどなかったはずなのだが…。

人間の欲望を計算に入れていないシステムは長持ちしない。理念だけでは社会は維持できない。およそ二十年ごとに繰り返された土地政策の変遷と公地公民原則の崩壊の過程は、欲望と社会制度の相関を物語る好例だと思われるのである。



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