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連載日本史80 鎌倉時代の産業と生活(1)

ここで鎌倉時代の産業と人々の生活の変化をまとめてみよう。農業では二毛作や肥料・鉄製農具の普及などにより、土地生産性が大幅に向上した。また牛や馬に犂を牽かせる牛耕・馬耕によって、人力よりも深く耕すことが可能となり地力回復に役立った。収穫量の増大によって生じた余剰農作物や商品作物は農民の副収入源となった。現物で納めていた年貢などの税も、荘官や地頭が仲立ちとなって市場で取引され、銭納の形態をとるようになっていった。さらに遠隔地の納税では、輸送上の安全もあって割符と呼ばれる為替手形で決済するようになった。ここまでくると現代の商取引と変わらない。

鎌倉時代の農業の様子(tamagawa.ac.jpより)

手工業では鍛冶や鋳物師(いもじ)、紺屋(こうや)などの職人が専業化し、同業組合である「座」を結成して利益の確保を図った。座に所属する職人たちは朝廷・貴族・寺社等から供御人(くごにん)・神人(じにん)などと呼ばれる認定を受け、取引の権限を保障してもらう見返りとして利益の一部を上納した。武士たちの封建的主従関係や、荘園・公領における土地を媒介とした利害関係とは別に、商工業者には商工業者の秩序が存在したのである。

備前・福岡荘の定期市の様子(東京書籍「図説日本史」より)

貨幣経済の浸透とともに、借上(かしあげ)や土倉(どそう)、頼母子(たのもし)と呼ばれる金融業者も現れた。主に流通したのは、大陸から輸入された宋銭である。平清盛が始めた日宋貿易は、鎌倉時代に入ってからも民間貿易の形で続き、宋からは宋銭をはじめ、絹織物や陶磁器、薬品、書籍、文具などが流入した。日本からは金・水銀・硫黄・刀剣・漆器などが輸出された。人的交流も盛んで、日本からは栄西や道元、宋からは蘭渓道隆や無学祖元などの禅僧たちが海を渡った。元との和平が成った14世紀には日元貿易も盛んになり、宋銭に加えて元銭も流通するようになった。

鎌倉時代の国際航路(tamagawa.ac.jpより)

歴史学者の故・網野善彦氏は、著書「日本の歴史をよみなおす」の中で、農耕社会としての均質的な日本のイメージは偏ったものだとし、特に中世の日本は、さまざまな産業に従事する人々が織りなす、多様性に富んだ社会であったと結論づけている。そして、日本=農耕社会という固定観念が定着した一因として、百姓=農民という思い込みがあったと分析しているのだ。

網野義彦著「日本の歴史を読み直す」
(ちくま学芸文庫)

確かに、もともとの中国語における「百姓」は、広く一般民衆を指す言葉であって、農民に限定された概念ではない。それが日本で、百姓=農民という思い込みにつながったのは、中世から近世に至る政治体制が、建前上は農業を基盤とする土地をベースに組み立てられたものであったからにすぎない。土地を持たない「水呑(みずのみ)百姓」は、必ずしも土地を持てない貧しい農民ばかりだったわけではなく、土地を持つ必要がない豊かな商工業者や運送・流通業者なども相当数含まれていたはずだというのである。

そうした目で中世の日本を眺めてみると、単に貴族から武士へと政治の実権が移動しただけではなく、社会のあらゆる階層で、流動性と多様性に富んだ大きな変化が起こっていた時代だということが見えてくる。「百姓」というキーワードひとつの解釈次第で、見えてくるイメージがこれだけ変わるのだから、普段何気なく使っている言葉の定義を改めて見直す姿勢は大切なことだと改めて実感するのである。





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