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連載日本史72 鎌倉幕府(2)

将軍と御家人の主従関係は御恩と奉公で結ばれていた。御家人たちは将軍からの「御恩」として、旧領の保障としての本領安堵と新たな領地の授与である新恩給与を受ける。それに対する「奉公」として御家人たちは軍役(合戦への参加)や番役(京や鎌倉の警護)、関東御公事(幕府・寺社等の修造)を請け負う。こうした縦の契約関係が鎌倉幕府を支える屋台骨となり、合戦時の「いざ鎌倉」は御家人たちの合言葉となった。

御恩と奉公(manareki.comより)

実際に行ってみるとわかるのだが、鎌倉は京や江戸に比べると、かなり狭い都市である。中央に位置する鶴岡八幡宮は、かつて源頼義が前九年合戦の戦勝を祈願して源氏の氏神である石清水八幡宮を分祀したことに始まる。頼義の息子の義家はここで元服したため、八幡太郎と呼ばれた。鎌倉の南は相模湾に面しており、残り三方は山に囲まれている。典型的な軍事都市である。外から鎌倉に入る道は、いずれも山を切り開いた切通(きりとおし)と呼ばれる狭い通路になっており、防衛には最適であった。西部には、当時の浄土信仰を反映して、西方浄土を意識した高徳院阿弥陀如来像(鎌倉大仏)や極楽寺などがあり、宗教都市としての側面も強かった。後には鎌倉五山と呼ばれる禅宗の寺院が次々と建立されることになる。

城塞都市 鎌倉(「山川 詳説日本史図録」より)

生まれ落ちたばかりの武家政権は頼朝の絶妙な政治感覚によって均衡を保っていたため、彼の死後には一気に不安定化した。頼朝の長男で第二代将軍となった頼家は独断が過ぎるとして裁決権を止められ、有力御家人たちが合議制で幕府を支えたが、まず有力御家人のひとりである梶原景時が失脚した。1203年には、頼朝の妻であった北条政子の父である時政が執権に就任、その直後に頼家の妻の父である比企能員が北条氏によって謀殺され、頼家は伊豆修善寺に幽閉された。御家人たちの忠節は、あくまで将軍頼朝に対して各々が結んだ御恩と奉公の縦の関係であり、頼朝の没後は御家人同士の横の関係における利害の対立があらわになったのである。



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