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連載日本史249 戦後の国際情勢(1)

日本がGHQの占領下にある間に、国際情勢は大きく変動しつつあった。まず1945年10月、戦勝国を中心に、戦後の世界秩序の基軸として国際連合が発足した。国連には米英中仏ソの五大国を常任理事国とする安全保障理事会が設置されたが、英仏をはじめとする欧州諸国は大戦によって著しく荒廃しており、中国では国民党と共産党の内戦が再燃していた。結局、抜きんでた軍事力と経済力を持つ米国とソ連が、圧倒的なパワーをもって戦後の国際秩序をリードするに至ったのである。

国際通貨基金(IMF)と世界銀行(IBRD) (gentosha-go.comより)

すでに大戦末期から、米国主導で国際通貨基金(IMF)や世界銀行(国際復興開発銀行)が設置され、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)が締結されて、ドルを基軸通貨とした固定為替相場制と自由貿易によるブレトン・ウッズ態勢が構築されていた。こうした米国の影響力の増大に不満を抱くソ連は、占領下の東欧諸国に社会主義体制の樹立を強要し、1947年には各国共産党の連絡組織としてのコミンフォルムを結成して独自の政治・経済圏を築いた。ソ連の膨張を危惧した米国のトルーマン大統領は、共産主義の封じ込め政策としてトルーマン・ドクトリンを発表し、1947年にはマーシャル・プランに基づいて西欧諸国の経済復興と軍備増強を援助した。ここに米国を盟主とした資本主義(西側)陣営と、ソ連を盟主とする社会主義(東側)陣営による冷戦が始まったのだ。

ヨーロッパの東西冷戦(seijikeizaijuku.comより)

1948年、分割占領下のドイツで、ベルリン封鎖が起こった。旧首都のベルリンは米英仏が西半分、ソ煉が東半分を管理下に置いていたが、ソ連が市域全体を封鎖するという強硬手段に出たのである。西側諸国は孤立したベルリン市民に食糧や燃料を空輸し、東西間の緊張は頂点に達した。翌年にはドイツ全土が、米英仏の管理する西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と、ソ連の管理する東ドイツ(ドイツ民主共和国)に分裂。さらに米国と西欧諸国が共同防衛組織として北大西洋条約機構(NATO)を結成すると、ソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を結成するなど、ヨーロッパは東西冷戦の最前線と化した。冷戦の影響はアジア諸国にも飛び火し、日本の占領政策をも次第に変質させていくのである。

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