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そして日本語は適当になる(1)助詞の誤用。

意味を変えてしまったテロップ

「喪失感はないです。私のどこかの頭の中には、
邦子は生かし続けたいと思っていると思っています。 はい。」

この発言の主は向田邦子の妹の向田和子さん。
1981年に台湾の飛行機事故で突然この世を去った
姉で脚本家・作家の向田邦子の心情を想像した言葉だった
(先日の『アナザーストーリーズ  
突然あらわれ突然去った人~向田邦子の真実~』)。

ところが、この言葉に沿って流れたテロップは、

喪失感はないです。私のどこかの頭の中には、
邦子を生かし続けたいと思っていると思っています。 はい。

と表示されたのだ。
実際に話された「邦子は」の(邦子と他を区別する)副助詞「は」が、
テロップでは対象を示す格助詞「を」に変わっていたのだ。

助詞で、伝えたい気持ちまで変わる

このとき和子さんは「生かし続けたい」の主語を邦子さんとし、
姉は妹の私の頭の中に自分の思い出を生かしたいと
思っているから、自分も姉のことを
忘れない、と遺族としての思いを語っていたのだ。

それに反しテロップでは、
単に自分は(対象である)姉・邦子のことを
頭で生かしたい、と思っているという意味に変わる。
それでも妹としての気持ちは分かるのだが、
妹を通して自分を生かし続けたいという
早逝した向田邦子の無念や、
姉の思い出は消さないという妹としての覚悟は薄れてしまう。

そして、
「思っていると思っています」という二つの
「思う」の一つが行き所を失ってしまうのだ。

これは「(邦子は)思っていると」「 (私は)思っています」と
主語が分かれるのだが、テロップはそこまで思慮が及ばない。

重箱の隅をつつく、のではない

いずれにしても、ここで語られる向田邦子の気持ちは、
残された妹・和子さんの想像に過ぎないのだが、
生の言葉にあった姉の無念の気持ちを思いやる妹の健気な心境は
テロップでは伝わらない、のである。

この指摘を読まれて「細かなことを」と思われる方も
いらっしゃるだろうが、
日本語の助詞は本来、言葉にどんな意味を付けるかという
重要な役割を果たすのである。

しかし、この事例に限らず、
最近の日本語(会話)では「助詞」の誤用が多い、

いや、
そもそも

助詞の選び方で日本語の意味が変わる、
という意識が消えてしまっているとさえ感じる。

“適当”になる日本語

あくまでサンプルをマスメディアやSNSとしたうえで、
最近の日本語会話は、
助詞の誤用で多少、意味が変わろうが、
そこに出て来る名詞で何となく何がテーマかに
あたりをつけて、正確な内容を曖昧にしたまま
適当に話される機会が目立つ、
と感じている。

言うまでもなく、話し言葉はときに乱れる。
しかし以前はすぐに自ら言い直したものだが、
最近は間違っても言い直さないことが多い。
このように、
普段の会話が適当になっているから、
例えば政府発表の情報を常に「難しい」と感じる
読解力の低下が引き起こされている

と思わずにいられない。


向田さん脚本のテレビドラマ
「隣の女」でヒロインを演じた桃井かおりさんは、
「死んで何してんだろ」と
向田さんについての思いを語った。

死んで何してんだろ、向田さん、
あなたがいないいま、

日本語はどんどん適当になってしまっていますよ。

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