連載日本史㉖ 律令制(4)

大宝律令の制定は、日本史上のもうひとつのターニングポイントを伴っていた。それは元号の公式使用の開始である。元号自体は大化の改新の際に既に創始されていたようだが、実際に使われていた形跡は見られない。日本での公式の元号使用が確認できるのは、まさに大宝元年(701年)からなのである。

ユニークな時刻表風の歴代年号表(twitter@Y_Hayama01より)

皇帝の治世に合わせた元号の使用は、もともと中国で考案された制度だが、中華思想のもとで周辺諸国を臣下とみなす冊封(さくほう)体制を敷き、朝貢外交を基本方針としていた中国は、自国の影響下にある国々に対して独自の元号の使用を認めていなかった。元号の公式使用の開始は、日本が中国の冊封体制から脱却したことを宣言したものであると言えよう。同時にそれは、日本列島の空間的な支配を確立しつつあったヤマト政権が、時間的な面での中央統制に踏み出したことをも示している。

十干十二支(コトバンクより)

それでは元号の使用以前には日本ではどのように年を表していたのかというと、これも中国から伝わったものなのだが十干十二支(じっかんじゅうにし)の組み合わせによる暦法を用いていた。十干とは、世界中の物質は全て五つの元素(木・火・土・金・水)の陰と陽から成るという陰陽五行説に従い、それらを「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」(きのえ・きのと・ひのえ・ひのと・つちのえ・つちのと・かのえ・かのと・みずのえ・みずのと)の十個の文字に割り振ったものである。十二支は、年賀状でおなじみの十二匹の動物、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」である。これらを組み合わせて六十年周期で年を表すのだ。たとえば、乙(きのと)・巳(み)の年に起こったクーデターは「乙巳の変」、壬(みずのえ)・申(さる)の年に起こった内乱は「壬申の乱」ということになる。この暦法では、十と十二の最小公倍数、すなわち六十年が経つと暦は元に戻る。六十歳を「還暦」と称して祝う風習は、ここから生じたものだ。

和暦・西暦対照表(「みんなの知識 ちょっと便利帳」より)

十干十二支による暦法が、無限の時を循環する時間感覚を表したものだとすれば、元号による暦法は、有限の時を更新していく時間感覚を表したものだと言える。一方、キリストの生誕を紀元とする西暦の年号は、無限の時が累積されていく時間感覚を示すものとして捉えることができる。西暦を用いている国、イスラム暦を用いている国、元号を用いている国、十干十二支を用いている国、それらを並列して使っている国などを比べてみて、時間感覚の違いを考察してみると面白いかもしれない。普段、何気なく用いている年号だが、そうした無意識の習慣こそが、生理的な時間感覚や歴史認識のすれ違いを生み出しているのではないだろうか。





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