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連載中国史36 元(2)

オゴタイの死後も、モンゴル帝国の領土拡大は続いた。四代皇帝のモンケ・ハン(憲宗)の時代には吐蕃(チベット)を服属させ、1254年には弟のフビライが南方の大理を征服、西方では1258年にフラグがバグダッドを攻略し、アッバース朝を滅ぼした。翌年には朝鮮半島の高麗も支配下に置いた。破竹の勢いである。

フビライ・ハン(Wikipediaより)

1260年、モンケの死後に帝位に就いたフビライ・ハン(世宗)は1264年に首都をカラコルムから中都(現在の北京)へと遷し、1271年には国号を元と改め、首都も大都と改称した。そして1276年、とうとう南宋を滅ぼし、中国全土から中東に至るまでのユーラシア大陸の大部分を支配する大帝国を作り上げたのである。

モンゴル帝国の最大版図(「世界の歴史まっぷ」より)

もともと遊牧民族国家の連合体であったモンゴル帝国は、領土拡大とともに五つに分かれた。中国全土を支配する元、中央アジアを支配するオゴタイ・ハン国とチャガタイ・ハン国、中東を支配するイル・ハン国、ロシアを支配するキプチャク・ハン国の五国である。その中でも、元の皇帝はモンゴル帝国全体の皇帝(大ハーン)を兼務する存在であり、この巨大な連合帝国の頂点に位置した。元は中国を支配するにあたってモンゴル民族を優遇したが、実務に精通した者は民族の枠を越えて官吏として採用した。そのため大都は多様な民族が行き交う国際色豊かな都となった。フビライはユーラシア大陸の遊牧・農耕経済と、東シナ海や南シナ海の海上交易経済を統合した新国家を建設しようとした。金と南宋の対立によって衰退していた中国の南北の交通は再び活気づき、大都は運河の拠点として、内陸にありながら中央に港を持つ巨大計画都市として生まれ変わった。渤海に面した直沽(天津)が運河で大都と結ばれた外港となり、ここに現在の北京・天津ルートの礎が築かれたのである。

蒙古襲来絵詞(Wikipediaより)

しかしながら、モンゴル帝国の拡張政策には次第に翳りが見え始めていた。1274年と1281年の二度に渡って行われた日本侵攻(文永・弘安の役)に相次いで失敗し、1284年にはベトナム南部のチャンパー(占城)遠征にも失敗。1287年、ビルマのパガン朝への進出には成功したものの、翌年からの数次にわたるベトナム北部の大越国(陳朝)遠征にも失敗した。1294年には強烈な統率力を持ったフビライが死去し、モンゴル帝国は徐々に衰退へと向かっていくのである。

歴史上、全世界を支配下に置いた国は存在しない。十三世紀のモンゴル帝国の拡張は史上空前の世界帝国建設への試みであったと言えるが、それでもユーラシア大陸の全土までは到達しなかった。結局、ひとつの権威・権力が支配を及ぼすことのできる範囲は、おのずから限定されるということなのだろうか。大きくなることのメリットをデメリットが確実に上回る臨界点が、そのあたりにあるのかもしれない。

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