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連載日本史234 日中戦争(2)

日本で近衛文麿内閣が成立した直後の1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突が起こった。現地で停戦協定が成立したにも関わらず、近衛内閣は軍部の強硬派に押されて兵力増派を決定。宣戦布告もないままに、日本と中国は本格的な戦闘に入った。翌月には上海に攻め込んだ日本軍は更に戦線を拡大し、1937年の末には国民政府の首都であった南京を占領した。占領から1ヶ月余りの間に、日本軍は南京市内で略奪・暴行を繰り返した上に、多数の一般住民や捕虜を殺害した。いわゆる南京虐殺である。

百人斬りを報じた新聞記事(WIkipediaより)

南京事件の犠牲者数の詳細は不明であり、中国軍による偽装工作も見られたようだが、だからと言って日本軍の虐殺がなかったとは言えない。中国人百人斬りなどの武勇伝は日本軍を通じてもたらされたものだし、実際に虐殺に関わった兵士たちの証言も少なくない。中国政府の主張する犠牲者30万人はいくら何でも多すぎると感じるが、一方で全てを捏造だと否定する人々の論評には都合の悪いことから目を背けようとする不誠実さを感じる。実際、外務省には占領直後から南京の惨状が伝えられていたという。だが日本国内の民衆は首都陥落の報に狂喜し、各地で祝賀行事として提灯行列が行われた。中にはこれで戦争が終わると思った人々もいたかもしれない。だがそれは、泥沼の長期戦の序章に過ぎなかった。

近衛文麿(WIkipediaより)

1938年、近衛首相は「国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を発し、和平への道を自ら閉ざした。前年には既に、長期戦を想定して軍需品生産に優先的に資材や資金を回す経済統制が行わえていたが、政府は改めて国家総動員法を成立させ、戦時において経済や国民生活全般を統制する権限を得た。「非常時だから」という名目で、政府が国民の生活を徹底的に統制することが可能となったのである。同年末には日本政府は戦争目的を日・満・華の連帯による東亜新秩序建設であるとする声明を発表した。戦争を始めてしまってから、後付けで目的をこじつけた印象である。当然ながら、国際的な承認は得られなかった。

日中戦争関係図(gakuen.gifu-net.ed.jpより)

一方、蒋介石に率いられた中国国民政府は重慶に本拠地を移し、徹底抗戦を続けた。1939年に米国が日本の中国侵略に抗議して日米通商航海条約を破棄すると、日本の資源調達は更に困難を極めた。中国政府は南方の援蒋ルートを通じて英米からの援助を受け、抗日戦を継続した。戦争終結の見通しが持てない日本政府は、1940年、南京に汪兆銘を主席とする新国民政府を成立させ、傀儡政権の樹立による収束を図ったが無駄であった。満州のようにはいかなかった。中国本土は大きすぎた。そして日本政府と軍部の見通しは、情けないほどに甘すぎたのである。

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