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オリエント・中東史⑦ ~アケメネス朝ペルシア~

紀元前550年、イラン人の一系統であるペルシア人のアケメネス朝が、現在のイランの南西部ペルシア湾岸地方を根拠地として、四王国時代のメディアから独立した。国王キュロス2世は軍を率いてメディアを滅ぼし、次いでリディアと新バビロニアをも打ち破って両国を併合した。後継のカンピュセス2世は、前525年にエジプトを滅ぼして全オリエントを統一。ここにアッシリア以上の広大な版図を持つ世界帝国が誕生したのである。

ペルシア人とは、インド・ヨーロッパ語族のイラン人の一系統であり、前7世紀に興ったゾロアスター教を広く信仰していたとみられる。わずか四半世紀の間に一地方勢力からオリエント全域へと支配を広げたアケメネス朝ペルシア帝国は、刃向かう敵を強大な軍事力で叩き潰してきたが、服属下に入った人々に対しては、比較的寛容な政策で臨んだ。バビロン捕囚下にあったユダヤ人を解放したのも、そうした寛容政策の表れである。ペルシア帝国は前6世紀末から前5世紀初頭に至るダレイオス1世の時代に最盛期を迎え、首都スサに加えて新都ペルセポリスを建設し、西はエーゲ海北岸から東はインダス川に至る大帝国にまで発展した。ダレイオス1世は中央集権体制の確立を図り、全国を20余りの州に分けてサトラップ(知事)を派遣し、「王の目」「王の耳」と呼ばれた直属の監察官を派遣してサトラップを監督させた。また、ペルシア地方西端の行政府スサを起点とし、メソポタミアを横断してアナトリアのリディア旧都のサルデスに至る「王の道」を建設。駅伝制を整備して情報収集に努め、交通・通商の便宜を図った。

ダレイオス1世も被征服民に対しては寛容な政策で臨み、各々の言語・宗教や伝統・慣習などを容認した。帝国の公用語にはペルシア語の他にアラム語も用いられ、メソポタミア以来の楔形文字やアラム文字が記録に使われた。また、リディアの貨幣鋳造技術をも継承し、金貨をはじめ貨幣の統一もなされた。すなわち、被征服民への寛容政策は、帝国のスケールメリットを活用した経済活動の拡大という実利をも伴っていたのだ。こうした点は、かつてオリエント地方に君臨し、被征服民に対して過酷な支配で臨んだアッシリア帝国とは対照的だと言える。ペルシアがアッシリアよりも広大かつ長期にわたって帝国を維持できたのも、経済発展を伴った寛容政策が功を奏した結果だと考えられるのである。

しかし西方への更なる勢力拡張をもくろんだ前5世紀におけるギリシア遠征(ペルシア戦争)の失敗を曲がり角として、帝国の支配には翳りが見え始める。紀元前330年、ダレイオス3世の時代に、マケドニアのアレクサンドロス大王に率いられた破竹の勢いの遠征軍の前に帝国は潰えた。分際を越えた領土拡張への欲望が衰退の契機となるのは世の常だが、独立以来220年の歴史を誇ったペルシア帝国も、やはりその轍を免れ得なかったと言えよう。

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