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連載中国史46 清(5)

冊封・朝貢関係を基本とした管理貿易体制を敷いてきた清では、乾隆帝治下の1757年以来、海外貿易の窓口を広州一港に限定し、特許商人の組合である公行(コホン)に貿易業務を独占させてきた。一方、植民地化したインドにおける国際会社である東インド会社を通じて貿易での利益拡大をもくろむイギリスでは、中国からの茶や絹や陶磁器の輸入超過と、その対価としての銀の流出による貿易赤字が問題になっていた。典礼問題で政府間での貿易交渉が決裂した後、英国はインド産のアヘンの密貿易を組み込んだ三角貿易を活発化させる。すなわちインドから安価な原綿を輸入し、産業革命で大量生産が可能となった綿織物をインドに売りつけ、インドから中国へはアヘンを大量に売り込み、その対価として中国から銀を得るというものである。この取引で中国からは大量の銀が流出し、流入したアヘンによる麻薬中毒者が続出して社会不安が拡大した。

管理貿易から三角貿易へ(東京法令「世界史のパサージュ」より)

さらに乾隆帝譲位後の1796年、白蓮教徒の乱と呼ばれる内乱が起こる。長年にわたる皇帝独裁の陰で進行していた官僚の腐敗や専横に対する反発に火がついたのである。乱は八年近くも続き、建国時には最強を誇った清の正規軍である八旗兵も長年の堕落がたたって乱の鎮圧ができず、郷勇と呼ばれた各地の義勇兵の力によってようやく治まるという窮状に陥った。

アヘンを処分する林則徐(WIKIMEDIA COMMONSより)

内憂外患の事態打開のため、道光帝から欽差大臣(特命全権大臣)に任命された林則徐は、1839年に広州でアヘン二万箱を強制没収・棄却処分とし、英国商人を追放した。役人の賄賂によって野放し状態になっていたアヘン密貿易を厳しく取り締まり、麻薬と汚職の蔓延による社会腐敗に終止符を打とうとしたのである。しかし彼の強硬姿勢は英国の反発を呼び、英国議会は僅差で開戦を決定。1840年に軍艦を派遣して広州へ攻め込んだ。アヘン戦争の始まりである。

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