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連載日本史⑲ 大化の改新(2)

乙巳の変で蘇我氏を倒した中大兄皇子は、すぐには天皇にはならなかった。叔父の軽皇子を孝徳天皇として即位させ、自分は皇太子のままで実権を握ったのだ。トップを象徴的存在として立てておいて、ナンバーツーが実権を振るうというパターンの典型である。

中大兄皇子とは、いったいどういう人物だったのだろう? 自身の母親でもある皇極天皇の目の前で自ら血しぶきを浴びて大臣を斬殺したほどだから、よほど冷酷かつ剛胆な人間であったことは間違いないだろう。加えて、暗殺を警戒して細心の注意を払っていたであろう権力者の蘇我氏に対して、事前に疑われるような素振りも見せず、用意周到に計画を進めることができたわけだから、慎重かつ知謀に長けた人物であったことも伺われる。その慎重さは、乙巳の変の後も自身はすぐに即位せず叔父の孝徳天皇を立て、孝徳天皇の死後には、母親の皇極天皇を斉明天皇として重祚(ちょうそ=同じ人物が代を隔てて再び即位すること)させ、二代にわたってナンバーツーの地位にとどまったところにも表れている。

中大兄皇子(天智天皇)関係系図(tadtadya.comより)

ただ、ここまでいくとやや慎重さが過ぎるのではないかという疑問も湧く。乙巳の変の直後は、さすがに直接手を下した殺人者がすぐに天皇になるのは憚られたであろうが斉明天皇の即位は乙巳の変から九年後の654年である。その頃になれば、さすがに暗殺直後のほとぼりも冷めていただろうし、年齢的に言っても、28才になっていた皇子が即位するのには何ら支障がなかったと思われる。それでも、母親を重祚させてまで自身が皇太子にとどまったということは、周囲からの人望がなかったからなのではないかとも考えられるのだ。

乙巳の変以降の略年表(nihonshi0.hatenablog.comより)

斉明天皇の死後も彼はすぐに即位せず、称制(天皇代理)の地位についた。天皇が空位であるにも関わらず「代理」とは妙である。ここまでいくと、ただの慎重さではなく、彼自身に何らかの問題があったと考えざるをえない。乙巳の変の後、彼は同志のひとりだった蘇我倉山田石川麻呂を謀叛の疑いで殺している。また、658年には孝徳天皇の遺児である有間皇子を謀殺した。いずれも自身の権力基盤を脅かすのではないかという不安に駆られてのことだろう。怜悧な頭脳と果敢な行動力を見せた彼の半生からは、手段を選ばない非情さと強い猜疑心も透けて見える。辣腕の政治家に時折見られがちな、いわゆるサイコパス的な危うさを持った人物だったのかもしれない。

中大兄皇子が天智天皇として正式に即位したのは668年、乙巳の変から23年も過ぎてからのことだった。




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