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連載日本史260 高度経済成長(2)

高度経済成長は日本の産業構造を大きく変化させた。1950年の産業別人口比率では、第一次産業(農林水産業)が半分以上を占めていたが、1960年には30%となり、70年には17%まで減少した。代わって第二次産業(鉱工業)と第三次産業(商業・サービス業)の割合が急激に増加し、農村から都市部へ工業・商業労働力として多くの若者が集団就職で流入した。特に京浜・中京・阪神・北九州の四大工業地帯や、1962年に公布された新産業都市建設促進法によって指定された新産業都市を中心に、重化学工業のコンビナートが建設された。石炭から石油へのエネルギー革命が急激に進み、輸入原油が石炭にとってかわり、戦後の産業復興を支えた国内の炭鉱は衰退していった。

産業別就業者数の推移(www.jil.go.jpより)

1961年には農業基本法が制定された。これは農業経営の近代化や生産性の向上、農産物価格の安定、農村の構造改革などを目指した法律であった。しかし、機械化や合理化によって農業生産性は大幅に向上したものの、若年層の工業・商業への流出によって、農業従事者は急速に減少し高齢化した。専業農家の比率も下がり、他の仕事を主とし、農業を従とする第二種兼業農家の割合が過半数を超えた。生産過剰の米に対して減反政策がとられる一方で、安価な輸入農産物の流入により、食糧自給率は低下する一方であった。貿易収支でみれば、農産物を輸入して工業製品を輸出する方が、高い利益を上げることができたのだ。

専業農家・兼業農家数の長期推移(honkawa2.sakura.ne.jpより)

人々の生活は、どんどん豊かになっていった。50年代後半には洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれ、一般家庭の買い揃えたい電化製品の代名詞となったが、それらがほとんどの家庭に普及した60年代後半にはカラーテレビ・自動車(Car)・クーラーの3Cが「新・三種の神器」と呼ばれた。頑張って働けば、ほしいものが手に入る。そんな素朴な人々の欲求の集積が、高度成長を支える巨大なエネルギーとなった。

1950年代から60年代にかけての国民総生産(GNP)と国民所得の推移(www5.cao.go.jpより)

1964年、東京オリンピックが開催された。日本のみならずアジア地域で初のオリンピック開催であった。戦後復興のシンボルとなったオリンピック。買ったばかりのテレビで多くの国民が日本選手の活躍に熱狂した。時を同じくして東海道新幹線や首都高速も開通した。オリンピックを契機にインフラ整備が一気に進んだのである。同じ年、日本はOECD(経済開発協力機構)への加盟を果たし「先進国」の仲間入りをした。経済の好調を追い風に、池田首相から政権の座を譲り受けた佐藤栄作首相は、1964年から1972年まで8年近くにわたる長期政権を維持した。1968年には日本のGNP(国民総生産)が米国に次いで世界2位となり、日本は経済大国と呼ばれるようになった。一方で、急激な経済の膨張と社会構造の変化は、大きな副作用をももたらしたのである。

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