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連載 スイスの歴史⑦ 宗教改革

1517年、ローマ・カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判したマルティン・ルターの「95ヶ条の論題」を契機にドイツで始まった宗教改革は、旧来の教会支配に不満を抱いていた欧州各地に次々と広まった。スイスではチューリヒのツヴィングリとジュネーブのカルヴァンが改革の中心となり、特に新興の商工業者や自営農民の間にプロテスタント(新教)の教義は急速に浸透した。勤労による蓄財を奨励し、個人と神との直接契約を重んじる新教のスタンスは、資本主義の萌芽期に台頭しつつあった新興ブルジョワジーと相性が良かったのだ。活版印刷技術の発達も新教普及の追い風となった。

ジュネーブの宗教改革記念碑(swissinfo.chより)

もちろん、プロテスタントと一口に言っても様々な流派があり、同じドイツ語文化圏に属するルターとツヴィングリの間にも教義を巡る論争があった。聖書への原点回帰という方向性においては同じだが、ルターに比べてツヴィングリの方が人文主義(ヒューマニズム)の色が濃く、それだけ合理的かつ現実的な政治社会改革の側面が強かったようだ。一方、同じドイツ語圏でも中部のルツェルンや原初三州ではカトリック(旧教)が勢力を保っていた。ツヴィングリ自身はカトリック勢力との内戦で戦死したが、彼の思想はチューリヒからバーゼル、ベルン等の都市部を中心に受け継がれ、フランス語圏のジュネーブにおけるカルヴァン派との結びつきを強めた。隣国フランスではカルヴァン派の影響を受けた新教徒(ユグノー)に対して激しい弾圧が加えられ、難を逃れたユグノーたちがジュネーブに流入したことで、ジュネーブはスイスのみならず欧州全体の宗教改革の中心地と目され、「プロテスタントのローマ」と呼ばれるようになったのである。

マックス・ヴェーバー著
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

ジュネーブでのカルヴァンの改革は、ツヴィングリ以上に徹底したものだった。宗教権力を世俗権力の上位に位置づけた彼は「神権政治」と呼ばれる独裁を行い、反対派を弾圧してジュネーブを新教の牙城としての宗教都市に仕立て上げた。後にマックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘したように、カルヴァン派の唱えた予定説が近代資本主義の精神的基盤となったという見方がある。神の救済は予め決定されていて人間には動かせないものだが、それが自分自身に予定されていることを証明するために、すなわち自分が神によって選ばれた人間の側に属することを信じたいという強い願望の上に、資本主義を基礎づける勤労と蓄財と投資の精神が育まれたというのである。英国での清教徒(ピューリタン)革命やスコットランド国教会の設立、アメリカ独立革命など、近代市民社会の成立にあたってカルヴァン派の思想が与えた影響は大きい。

三十年戦争終結後のヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ」より)
1648年のウエストファリア条約でスイスの独立が正式に承認された

スイスでの宗教改革は連邦内での対立を引き起こしはしたが、結果的にはドイツ語圏とフランス語圏の結束を強めることとなった。また、17世紀初頭に旧教勢力のフランスのサヴォワ公の軍勢をジュネーブ市民軍が撃退したことは、初期ナショナリズムの自覚を促すことにもなった。ジュネーブでは現在も、当時の戦いで用いられた梯子(エスカレード)をモチーフとしたエスカレード祭が毎年開催されている。17世紀には新教・旧教両勢力の和解が進み、1648年、ドイツでの三十年戦争終結にあたって結ばれたウエストファリア条約では、欧州においてスイスの独立が正式に承認された。周辺各国から見て、スイスは宗教対立の緩衝地域としても、独立して存在する意義を認められたということだろう。ここにもスイスにおける中立の必然性を見てとることができると思われる。

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