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連載日本史67 平氏政権(4)

頼朝に追われた義経は、かつて身を寄せていた岩手・平泉の奥州藤原氏に庇護を求めた。奥州藤原氏とは、後三年の役における清原氏一族の内紛で勝利した清衡が、父方の姓である藤原に改姓し、奥六郡・山北三郡(岩手・秋田内陸部)を根拠地として樹立したものである。豊富な金の産出と合戦に欠かせない良馬の生産を経済の要とした奥州藤原氏は、朝廷や平家とも良好な関係を結び、東北地方における自立政権を築いた。1124年に清衡が建立した中尊寺金色堂は、全面に金箔を施した贅沢な造りで、文字通りの黄金時代を彷彿させるものだ。

中尊寺金色堂(中尊寺HPより)

清衡の子である基衡は毛越寺、孫の秀衡は無量光院と、いずれも浄土をイメージした荘厳な寺院を建立した。平泉は巨大な宗教都市であった。清衡・基衡・秀衡と続いた藤原三代は、秀衡が陸奥守・鎮守府将軍となった十二世紀後半に全盛期を迎えていた。そこへ義経が転がり込んできたのである。

金鶏山を背景にした無量光院CG復元図(nippon.comより)

秀衡は義経を引き渡せという頼朝からの再三の要求を拒み続け、病を得て死ぬ間際にも義経を守って鎌倉と対峙せよとの遺言を息子たちに残していた。しかし、秀衡の後を継いだ当主の泰衡は、頼朝の圧力に屈し、兄弟たちの反対を押し切って義経を攻め、衣川に追い詰めて自害させた。武蔵坊弁慶が義経を庇って仁王立ちになり、全身に矢を浴びて絶命した後も倒れなかったという逸話が残っている。

奥州藤原氏関係年表(style.nikkei.comより)

しかし、頼朝の狙いはもはや義経ではなく、奥州藤原氏そのものになっていた。関東の鎌倉政権にとって、背後の東北における独立勢力の存在は、安全保障的にも経済的にも厄介な存在に見えていたのだ。泰衡には頼朝の意図が読めていなかった。結局、頼朝は義経を長年かくまった罪だという口実で平泉を攻め、逃亡した泰衡は家臣の裏切りで殺される。一時は平安京をも凌ぐと言われたほどの黄金の都・平泉を築き、三代百年続いた奥州藤原氏の栄華は、四代目当主の泰衡の判断ミスによって、あっけなく滅んだのである。

神奈川県藤沢市の白旗神社(Wikipediaより)

義経の首は平泉から鎌倉へ送られ、その後、藤沢の白旗神社に祀られたという。白旗は源氏の旗印だ。平氏の旗印は紅旗。日本を二分した紅白の戦いである治承・寿永の乱は、番外編の奥州合戦をもって、1189年にようやく終結をみたのであった。





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