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連載日本史174 戊辰戦争(2)

東へと進撃を続ける新政府軍に対し、江戸の旧幕府勢力は恭順か抗戦かで割れていた。将軍慶喜は早くから恭順の意を示し、江戸城を出て上野寛永寺で謹慎生活に入った。一方、松平容保は会津に戻り、庄内藩と同盟して官軍との戦闘に備えた。また、旧新撰組隊長近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊は、土佐の板垣退助らが率いる官軍を甲府盆地で迎え撃ったが完敗。近藤は後に捕縛され、処刑された。

山岡鉄舟(Wikipediaより)

官軍が江戸に迫る。旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、官軍参謀の西郷隆盛のもとへ、幕臣の山岡鉄舟を使者として派遣した。鉄舟の尽力で将軍慶喜の身の安全も保証され、勝と西郷の直接会談の場が設けられた。3月14日、江戸の薩摩藩邸における両者の会談で無血開城の方向性が示され翌日に予定されていた官軍による江戸城総攻撃は中止となった。背景には戦乱の拡大による貿易への悪影響を恐れた英国公使パークスからの新政府への働きかけがあったようだが、それにしてもギリギリの局面で両者が無血開城に向けて歩み寄った意義は大きい。翌月には江戸城は無事に明け渡され、危ういところで江戸は焦土にならずにすんだのである。

西郷隆盛と勝海舟の江戸開城談判(聖徳記念絵画館蔵)

とはいえ、旧幕府内の抗戦派は、それでは収まらなかった。船橋や宇都宮に陣取って抵抗を続けた旧幕府勢力は各地で官軍に敗退を重ね、次第に北へ北へと追いやられていった。上野を拠点とした旧幕府勢力の彰義隊は、大村益次郎を司令官とする官軍によるアームストロング砲の集中砲火で壊滅した。旧幕府の抵抗勢力の残党は関東一円から駆逐され、戊辰戦争の主戦場は、会津・庄内藩や奥羽越列藩同盟が抗戦態勢を構える東北へと移っていったのである。

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