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連載日本史124 桃山文化(2)

桃山文化の絵画の代表格は、狩野派の作品群であろう。室町末期の狩野正信に始まる狩野派は、水墨画の世界に華麗な色彩画を取り入れ、城郭などの障壁画を大量に請け負い、一世を風靡した。狩野永徳の手による「洛中洛外図屏風」や「唐獅子図屏風」「檜図屏風」は、いずれも縦2m近く、幅4m近くになる大作であり、奔放な筆致や大胆な構図、鮮やかな色彩が目を引く。京都の景観を俯瞰的にとらえた「洛中洛外図屏風」は、上洛を果たした織田信長から、越後の上杉謙信に贈られたものだという。絵画は芸術作品であると同時に、情報を伝え、記録するメディアでもあったのだ。

洛中洛外図屏風(artscape.jpより)

風俗画の世界でも、狩野派は活躍した。狩野吉信の「職人尽図屏風」では、鎧師・番匠(大工)・鍛冶師・畳師・桶師などの職人の様子が描かれ、狩野長信の「花下遊楽図屏風」や狩野秀頼の「高雄観楓図屏風」では、花見や紅葉狩りを楽しむ人々の様子が、美しい色彩で描かれている。これらも、当時の風俗を知る上での貴重な記録である。

花下遊楽図屏風(artmatome.comより)

狩野派に押され気味ではあったが従来のモノクロの水墨画も健在であった。長谷川等伯の「松林図屏風」や海北友松の「山水図屏風」では、墨の微妙な濃淡と、余白の味わいによって、豊かなイメージの広がりが感じられる。茶道に通じる、侘び・寂びの境地である。

松林図屏風(Wikipediaより)

工芸では、秀吉の正室である北政所が愛用した高台寺蒔絵が有名である。平安期の国風文化の時代にルーツを持つ蒔絵は、桃山時代にはいっそう洗練され、菊や萩や桔梗などの秋草をモチーフにした繊細な文様が、鮮やかな金粉と黒漆のコントラストによって描かれた。

高台寺蒔絵(高台寺HPより)

桃山文化を色で表すとすれば、それは「金色」の文化だと言えるだろう。時の権力者である秀吉は、黄金の茶室を作らせたり、関白の邸宅として建設した聚楽第の屋根を金箔の瓦で覆った。聚楽第は秀吉自身の手によってわずか八年で取り壊された(このあたりにも秀吉の晩年の狂気が感じられる)が、来日していた宣教師のルイス・フロイスは、自著「日本史」の中で「聚楽とは悦楽と歓喜の集合を意味する」と述べている。戦国の世を経て仏教色が薄れた桃山時代の金ピカ文化には、悦楽と歓喜の積極的な肯定が感じられるのである。





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