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連載日本史㉔ 律令制(2)

天武天皇の没後、有力な後継者とみなされていた皇子が二人いた。大津皇子と草壁皇子である。大津皇子の方が有能で人望もあり、次期天皇にふさわしいと周囲から期待されていたようだが、鸕野皇后の実子ではなかった。ここから悲劇が始まる。

大津皇子・草壁皇子関係系図(gooニュースより)

天皇崩御の翌月、大津皇子は謀反の疑いで捕らえられ、翌日には自害に追い込まれた。享年24歳。妃の山辺皇女も殉死した。事件の背後には、実子の草壁皇子を帝位に就けようと画策していた皇后の意図が透けて見える。万葉集には大津皇子と伊勢神宮の斎宮であった姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の間での歌のやり取りが残っている。帝位争奪の謀略の渦中で死に追いやられようとする弟と、それを黙って見送るしかない姉の哀しみが静かに伝わってくる名作である。連作の中から、大伯皇女の歌を二首、抜粋しておく。

 わが背子(せこ)を 大和にやると 小夜更けて 暁 露に 我が立ち濡れし
 現世(うつそみ)の人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む

大津皇子は死んだが、実子を即位させたいという皇后の願いは成就することはなかった。当の草壁皇子が病死してしまったからである。失意の中、皇后は自ら持統天皇として即位し、夫の遺志を継いで、律令国家建設への道を進んでいく。689年には飛鳥浄御原令を施行し、翌年には戸令によって庚寅年籍を作成させた。天智天皇の時代に、全国規模の戸籍である庚午年籍が既に作られていたが、それを更に精査して更新したのだ。土地と人民を基盤にした税制の整備のためには、正確な戸籍の作成は必要不可欠の事業であった。

百人一首の第一首・第二首に名を残す天智・持統天皇親子
(hatenablog.comより)

694年、先代天武天皇の悲願であった藤原京が完成し、持統天皇は遷都を行った。同年、天皇は草壁皇子の息子である軽皇子(文武天皇)に譲位し、自身は太上天皇(上皇)として引き続き政務を担った。祖母と孫の二人三脚での共同統治である。律令制度の整備は更に進み、藤原(中臣)鎌足の息子である藤原不比等(ふひと)を中心として、701年に大宝律令が遂に完成した。翌年、持統天皇は律令の施行を見届けて世を去る。享年57歳。中大兄皇子の娘として大化の改新の年に生まれ、父と夫の遺志を受け継ぎ、数々の権謀術数を尽くしながら、日本の古代政治の礎を築いた女傑の最期であった。



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